考えるとは何をしている状態なのか。哲学や脳科学から読み解いてみる
「思う」と「考える」はどう違うのか

日本語には「思う」と「考える」という似て非なる二つの言葉があり、「明日は晴れると思う」は自然でも「明日は晴れると考える」と言うと妙に硬い響きになるという、ねじれた使い分けがあります。逆もまた同じ。「この問題の答えを考える」は自然です。「この問題の答えを思う」は、落ち着きません。
辞書的に整理するとこうなります。「思う」は心に浮かぶ感覚的な動き、「考える」は筋道を立てて対象を分析する知的な作業。感想や印象を口にするなら「思う」、頭を使って結論を導くなら「考える」です。「この映画は面白いと思う」は一瞬の心の動きを言葉にしただけですが、「この映画がなぜ面白いのかを考える」となると、構成や演出、台詞の意図まで分解する作業が始まります。同じ対象に向き合っていても、心が勝手に動くか、頭を使って手を加えるかで、使う動詞が変わるわけです。
普段は意識せずに切り替えているこの境界線こそ、「考える」という行為の正体を探る最初の手がかりです。会議で「どう思いますか」と聞かれたときと「どう考えますか」と聞かれたときで、答える側の身構え方が変わるという経験がある人は多いはずです。後者を向けられると、なんとなく裏付けや理由まで用意しなければという圧を感じます。それこそが「考える」に埋め込まれた、分析と理由づけのニュアンスだといえます。
「考える」という言葉がもともと指していた行為

語源をさかのぼると、古語の「かんがふ」、さらに古くは「かむがふ」という形に行き着きます。この「かむがふ」は「か」(場所や方向を示す語)と「むかふ(向かう)」からなるとされ、二つのものを向かい合わせる、突き合わせるという意味合いを含んでいました。つまり「考える」はもともと、何かと何かを比べ合わせ、頭の中で行き来させる行為を表す言葉だったことになります。
複数の要素を頭の中で往復させ、突き合わせる行為。これが「考える」の出発点だったとすれば、現代の私たちが会議で資料を見比べたり、過去の経験と今の状況を照らし合わせたりする営みは、千年以上前の語感をそのまま引き継いでいることになります。英語のthinkも、古いゲルマン語で「〜のように見える」「〜という印象を持つ」という語に由来するといわれ、もともとは感覚的な動詞でした。一つの行為を指す言葉が、文化によって「突き合わせる」側から出発したり、「見える」側から出発したりしているのは、考えるという現象がそれだけ多面的だという証拠でもあります。
デカルトが「考える」を哲学の出発点に置いた理由

この行為そのものを哲学の土台に据えた人物として知られるのが、17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトです。彼の著書『方法序説』に出てくる「われ思う、ゆえに我あり」というフランス語の一節は、のちに著書『哲学原理』でラテン語の「コギト・エルゴ・スム(Cogito ergo sum)」という形になり、世界史の教科書にも載る有名な言葉になりました。
デカルトがやったことは単純ではありません。目に映るもの、常識とされていること、他人から教わった知識まで、少しでも疑える余地があるものはすべて偽と見なして捨てていきました。感覚は時に人を欺きます。夢と現実の区別も、突き詰めれば確実ではありません。その結果、最後まで疑いきれなかったのが「すべてを疑っている、この自分」の存在だったのです。何かを考えている最中であるという事実だけは、どれだけ疑っても消えない。ここから「考える私」の存在を哲学の第一原理として置いたわけです。
普段なにげなく使っている「考える」という言葉が、一人の哲学者によって存在証明の土台にまで持ち上げられた瞬間でした。デカルトが生きたのは、ガリレオが地動説を唱え、教会の権威と科学的な観察がぶつかり合っていた時代です。何を信じればいいのかわからなくなった時代でした。だからこそ自分の内側にある「考えている」という事実だけに足場を求めたのだとすれば、彼の選択はかなり時代の必然だったようにも見えます。
脳が考えているとき、実際に起きていること

哲学的な話から脳科学に視点を移すと、「考える」はかなりエネルギーを消費する行為だとわかります。脳はブドウ糖しかエネルギー源として使えない器官で、体重のわずか2%ほどの重さしかないのに、全身が消費するエネルギーのうち20%ほどを使っているといわれています。1時間あたりおよそ5グラムのブドウ糖が脳で消費されている計算です。試験前に甘いものが欲しくなるのも、脳のエネルギー事情と無関係とは言い切れません。
一方で、難しい会議や試験の最中に脳の消費エネルギーが急激に跳ね上がるわけではないという指摘もあります。局所的な活動は高まるものの、脳全体で見た1日あたりの総消費量はそれほど大きく変わらないというのです。脳は普段からかなりの電力を使い続けている器官で、「考える」という動作はその中で働く場所を切り替えているような現象に近いといえます。難しい問題に頭を抱えても、頭の中の電気代が跳ね上がるわけではない。むしろ普段からアイドリング状態で動き続けている器官が、必要な場所に電力を回しているというのが実際の姿に近いようです。
電力の回し先として特に重要なのが、おでこのすぐ裏側にある前頭前野という部位です。複数の選択肢を比べたり、将来の結果を見積もってから行動を選んだりする働きを担っており、「脳の最高司令塔」と呼ばれることもあります。この部位は人間の脳の中でもっとも遅く成熟することが知られています。10代を過ぎてもじっくり育っていく部位です。デカルトは考える力を人間存在の証拠として選びました。その背景には、人間の脳の中でも一番手間をかけて育つ部位が担う機能だという事実が、知らず知らずのうちに重なっていたのかもしれません。
速い思考と遅い思考、二つの「考える」

2002年にノーベル経済学賞を受賞した心理学者ダニエル・カーネマンは、人間の思考を二つのシステムに分けて説明しました。著書『ファスト&スロー』で紹介されているシステム1とシステム2です。
| システム1(速い思考) | システム2(遅い思考) | |
|---|---|---|
| 働き方 | 自動的・直感的 | 意識的・論理的 |
| 速度 | 瞬時 | 時間がかかる |
| 例 | 怒った表情を読み取る、音の方向を感じる | 狭いスペースに車を停める、41×71を計算する |
| 弱点 | 思い込みや偏りに弱い | 疲れやすく、怠けたがる |
カーネマンが好んで使う例題に、こんな問題があります。バットとボールを合わせて1ドル10セントで買いました。バットはボールより1ドル高い。ボールの値段はいくらでしょうか。多くの人は「10セント」と即答しますが、これはシステム1が出した誤答です。正しく計算するとボールは5セントになります。システム2を働かせずシステム1の答えをそのまま採用してしまうと、簡単な問題でも間違えてしまう好例です。
普段「よく考えてから答えて」と言うとき、私たちは相手にシステム1からシステム2への切り替えを求めているわけです。そしてシステム2はかなりの怠け者だとカーネマン自身が指摘しています。疲れているとき、お腹が空いているとき、時間に追われているとき、私たちはシステム2の出動をできるだけ避け、システム1の直感に頼ろうとする傾向があるそうです。
カラスやチンパンジーも考えているのか

人間だけが「考える」のか、という問いにも研究は答えを出しつつあります。ニューカレドニアに生息するカラスの一種は、針金を自分でフック状に曲げて、手の届かない場所にある餌を引き寄せる行動が観察されています。餌を取るまでに複数の手順を踏む必要がある課題でも、カラスはあらかじめ段取りを組んでから動くことが確認されました。目の前の道具を、必要な形に加工してから使う。これは単純な反射では説明がつかない行動です。
イソップ寓話「カラスと水がめ」を再現した実験も知られています。くちばしが届かない水位まで水を入れた容器にカラスを近づけると、何羽もが小石を容器に落として水位を上げ、浮いてきた餌を手に入れました。しかもおがくずを入れた容器では水位が上がらないと気づき、石を選んで使うことも確認されています。物の大きさと水位の変化という目に見えない関係性まで把握していたことになり、二千年以上前の寓話が比喩ではなく実話に近かった可能性を示す結果として話題になりました。
チンパンジーの研究ではさらに驚くべき結果が出ています。京都大学霊長類研究所で育てられたチンパンジーのアユムは、画面にランダムに表示される1から9までの数字の位置を、わずか0.2秒ほど見ただけで覚えてしまう瞬間記憶の実験に参加しました。数字の配置を当てる正答率は、同じ課題に挑んだ人間の大学生を上回ったと報告されています。
論理的に筋道を立てる力、つまり先ほどのシステム2に近い能力は人間に特有の部分が大きいとされますが、瞬時に情報をつかむ力では、人間がチンパンジーに負ける場面があるというのは興味深い事実です。この営みは、能力ごとに他の生き物と得意不得意が分かれている、まだら模様のようなものです。
何も考えていない時間ほど脳は働いている

ぼんやりしている時間、脳は休んでいるように見えます。ところが脳科学の研究では、意識的な作業をしていないときほど活発に動く神経回路が見つかっています。デフォルト・モード・ネットワーク、略してDMNと呼ばれる回路です。
散歩中やお風呂、シャワーを浴びている最中にふと良いアイデアがひらめいた経験がある人は多いはずです。この現象の背景にあるのがDMNの働きだと考えられています。DMNが活性化している間、脳は過去の経験や記憶の断片を物語のようにつなぎ直していて、普段つながるとは思わなかった情報同士が結びつくことがあります。これが「ひらめき」として意識に浮かび上がってくるわけです。
机に向かって一心に考え込んでいるときよりも、肩の力を抜いた瞬間のほうが思考が前に進むことがあるのは、脳の仕組みとして理屈が通っています。システム2をフル回転させている最中は、脳のリソースがその問題一点に集中してしまい、遠くにある情報同士をつなげる余裕が生まれにくいのかもしれません。シャワーの時間や散歩の時間が、いまだに多くの人にとって「考えが降りてくる」特別な時間として機能しているのも、こうした脳の性質と無関係ではなさそうです。
禅が目指した「考えない」という境地

ここまで「考える」ことの効能を見てきましたが、禅の世界ではむしろ「考えない」ことに価値を置いてきました。坐禅の基本的な心得として知られる言葉に、道元の『普勧坐禅儀』にある「不思善悪(善悪を思わず)」「息(そく)心意識の運転を停め」という一節と、唐代の禅僧・永嘉玄覚が『証道歌』で説いた「絶学無為の閑道人(かんどうにん)たれ」という一節があります。考える働きそのものを止め、はからいを捨てた状態をよしとする教えです。
ただしこれは、頭を空っぽにして何も感じない状態を目指しているわけではありません。円覚寺の横田南嶺管長は、坐禅中に浮かんでくる雑念を無理に払いのけようとすると逆に心が乱れるとして、その考えを「自分を守るために一所懸命働いてくれているもの」として受け止め、感謝しながら呼吸に意識を向けていく方法を説いています。坐禅を組んでいる間も、音や匂い、呼吸の感覚そのものは普通に感じ続けています。止めようとしているのは、その感覚に次々とラベルを貼り、良し悪しを判断し続けるシステム2の働きの方です。
システム2をフル回転させ続けている私たちの頭に、あえてブレーキをかける技術として、禅は千年以上前から「考えない」という選択肢を用意していたことになります。カーネマンが「システム2は怠け者だ」と表現したのに対し、禅の修行は「怠け者であることを自分から選び取る」ための具体的な方法だったとも読み替えられます。考え続けることが推奨されがちな現代において、あえて止める技術が千年単位で磨かれてきたという事実は、それ自体がちょっとした発見です。
頬に手を当てて考える仕草に意味はあるのか

難しい問題を前にすると、多くの人が無意識に頬や顎に手を当てたり、腕を組んだりします。この仕草自体に実用的な意味があるのかという問いにも、いくつかの説明が提示されています。
一つは、身体の動きを減らして余分な情報処理を節約するためという説明です。難しいことを考えようとするとき、人は足や腕を組んで姿勢を安定させることで、余分な動きにリソースを割かずに済むようにし、その分を思考に回していると考えられています。もう一つは、外からの刺激をいったん遮断し、頭の中に意識を向けやすくするための軽い自己安定行動だという見方です。顔や顎に軽く触れる行為そのものが、緊張や焦りを和らげる防衛的な反応になっているともいわれます。
あの姿勢は、身体を固定して思考にリソースを集中させるための、ごく実利的な工夫だったということになります。考えている最中の人を見かけたら、姿勢そのものが脳のためのちょっとした省エネ策になっていると思うと、見え方が少し変わってくるはずです。
ロダンの「考える人」は何を考えていたのか

この行為を象徴する彫刻として世界中で知られているのが、オーギュスト・ロダンの「考える人」です。あの前かがみの姿勢で頬に手を当てる像は、もともと単独の作品として作られたものではありませんでした。
ロダンが生涯をかけて取り組んだ「地獄の門」という巨大な扉の装飾彫刻の、中央上部に据えるための一部として構想されたのが始まりです。ダンテの『神曲』を題材にしたこの作品の中で、「考える人」は当初、地獄の光景を見下ろしながら思索にふけるダンテ自身を表すはずでした。制作が進むにつれてロダンは、岩に腰を下ろして夢想する一人の裸の男という形に発展させ、やがて「彼はもはや夢想する人ではなく、創造する者である」と位置づけるようになります。「考える人」という題名自体は、ロダンの没後に鋳造を手がけたリュディエという人物が付けたものだとされています。
もともとの原型は高さ70センチほどの小さな像でしたが、1903年から1904年にかけて、人の背丈を超える拡大版が作られました。ロダンの死後も含めて原型から鋳造が許されたオリジナルは世界に21体あるとされ、生前に9体、没後に12体が作られたと伝えられています。日本でもいくつかの美術館で本物の「考える人」に出会え、東京の国立西洋美術館の前庭にある一体もそのうちの一つです。筋肉に力を込めてうずくまるあの姿は、答えのない問いを前にして、なおも考え続けようとする人間の緊張をそのまま固めたような像だといえます。
今では絵文字やイラストの中にも、頬に手を当てて考え込むポーズとして取り込まれ、彫刻という枠を超えて使われています。もともとは一人の彫刻家が、地獄を見つめる詩人の姿として作り上げたポーズが、一世紀以上の時を経て「考えている人」を示す世界共通のサインになった。語源をたどれば千年以上前の「向かい合わせる」という感覚に行き着き、哲学をたどれば一人の疑い深い哲学者に行き着き、彫刻をたどれば一人の芸術家の手に行き着く。「考える」という一語の中に、これほど多くの歴史が折り重なっているとは、普段はまったく意識せずに使っている言葉だけに、なおさら面白く感じられます。
参考
- 考える/勘える/かんがえる - 語源由来辞典
- 「思う」と「考える」の違いとは : 違いがわかる事典
- デカルト『方法序説』を解読する
- 考える人|オーギュスト・ロダン|所蔵作品検索|国立西洋美術館
- ロダンの”考える人”が考えていること──地獄の門、そして創造の光へ
- ファスト&スロー / あなたの意思はどのように決まるか?
- 脳の「システム1」と「システム2」とは?事例付きで徹底解説
- カラスの知能、数手先を考え行動 最新研究で判明
- イソップ寓話の賢いカラス、小石落としで水を飲むは本当だった - 英大学
- チンパンジーの記憶力は人間以上?アユムに大学生が完敗|原田英語のマジカ!?サイエンス
- アイデア発想を司る脳のDMN(デフォルト・モード・ネットワーク)とは
- なぜ「シャワーを浴びている時」に良いアイデアが浮かぶのか?
- 脳の栄養「ブドウ糖」とは〜効果から食べ物まで幅広く紹介〜
- 前頭前野 - 脳科学辞典
- 考えを止める方法
- 考えるとき、顎に手を当てる?触る仕草や癖から相手の深層心理や特徴が分かる
- デカルト「我思う、ゆえに我あり」の本当の意味|方法的懐疑からコギトまで解説
- 道元禅師「普勧坐禅儀」(原文と訓読文)
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