品性とはいったい何か。人格や品格との違いからたどってみる

「品性」という漢字二文字が指しているもの

「品性のある人」「品性を疑う」のように使われる「品性」。漢字を分けてみると、意外と素直な成り立ちをしています。「品」は人としての等級や品格を表す字です。もとは器物を並べて等級づける意味を持っていました。「性」は生まれつきの性質、本来の姿を指します。二つを合わせると「人がもともと持っている、等級づけられるような性質」という意味になります。

辞書的には「道徳的な基準から見た、その人の性質や人格」と説明され、似た言葉に「品格」があります。品格は立ち居振る舞いから漏れ出る品のある雰囲気そのものを指すのに対し、品性はその雰囲気の土台にある内面の性質を指すという違いです。見た目と、その奥。分けて呼んでいる、と考えるとわかりやすいです。

「character」の訳語として明治に生まれた言葉

「品性」は古くからある日本語ではありません。英語の「character」の訳語として明治初期に定着した、比較的新しい言葉です。翻訳語の成立過程を調べた資料によると、明治7年(1874年)頃、阿部泰蔵がアメリカの神学者フランシス・ウェーランドの倫理学書を『修身論』として翻訳した際にこの語を用いたのが、定着のきっかけとされています。

つまり「品性」は、西洋の倫理学が輸入される過程で作られた、いわば学術用語としての出自を持つ言葉です。江戸時代の日本語にはなかった概念を表すために、既存の漢字を組み合わせて新しい言葉を作る。これは「社会」「権利」「科学」といった明治期の翻訳語と同じ手続きで、品性もその一つだったわけです。普段何気なく使っている言葉の裏に、150年前の知識人が頭を悩ませた翻訳作業が隠れていると知ると、言葉の見え方が少し変わってきます。

言葉ができる前から、中国にあった「君子」という原型

「品性」という言葉自体は明治生まれですが、それが指している中身、つまり人の内面の質を評価するという発想は、もっと古くからありました。代表的なのが、中国の古典『論語』に出てくる「君子」という概念です。

もともと「君子」は身分の高い支配者を指す言葉でしたが、孔子がその意味を大きく変え、地位ではなく人としての徳の高さによって評価される人物を指す言葉にしました。儒教では、仁(他者への思いやり)、義(正しさ)、礼(礼儀や作法)、智(知恵)、信(誠実さ)という五つの徳が重んじられ、これらを身につけた人物が君子と呼ばれます。知識だけがあって徳のない人物は「小人」として君子と対比され、低く評価されました。

つまり、「知識や地位の高さと、人としての質の高さは別物であり、後者の方が重い」という考え方は、品性という言葉が輸入される2000年以上前から東アジアに存在していたわけです。明治の翻訳者たちは character という新しい概念を日本語に移す際、ゼロから言葉を作ったわけではありません。もともと土台にあったこうした考え方の上に、「品性」という新しい呼び名を乗せた、と見ることもできます。

品格・人格・知性・教養とは何が違うのか

「品性」の周りには似たような言葉がいくつもあります。整理すると、重なりながらも指しているものが少しずつ違います。

言葉 主に指すもの
品性 道徳的な基準で見た、その人の性質そのもの
品格 品性が立ち居振る舞いににじみ出た、品のある雰囲気
人格 品性とほぼ同義で使われることが多い、人としての総合的なあり方
知性 物事を理解し判断する能力。道徳性とは別の軸
教養 知識と品性が組み合わさって育つもの

この中で面白いのは、知性と品性が別の軸にあること。知識が豊富で頭の回転が速い人が、必ずしも品性を備えているとは限りません。マナーの良さと品性も同じです。立派な敬語を使い丁寧な所作をしていても、目下の人には横柄な態度を取る人がいます。品性は、知識や技術のように後から積み上げられるものとは少し違う層にある。これらの言葉の使い分けから見えてくる感覚です。

「品」の字は、ふだんの暮らしのあちこちに潜んでいる

品性の「品」という字は、実は日常の中でもっとありふれた使われ方をしています。お店に並ぶ「商品」、おまけの「景品」、機械を構成する「部品」。どれも同じ「品」の字です。もとの意味である「器物を並べて等級づける」という感覚が、物を評価する場面全般に広がり、やがて人の性質を等級づける言葉にも転用された、という流れが見えてきます。

「上品」「下品」という言葉も同じ系譜です。物の質の良し悪しを表していた字が、立ち振る舞いの良し悪しを表す字として使われるようになり、最終的には人の内面そのものを指す「品性」にまでつながった。一つの漢字が、商品棚からその人の人格まで、評価の対象を広げながら生き続けてきたわけです。

英語に訳すとき、character・personality・integrityはどう違うのか

品性を英語に訳すとき、よく当てられるのが character です。似た言葉に personality がありますが、ニュアンスは異なります。personality は見た目や行動から判断される、その人らしさや人柄を指す言葉で、身体的・感情的な個性まで幅広く含みます。一方の character は、道徳観や信念に関わる性質、つまり他人からは見えにくい内面の質を指すというのが大きな違いです。

もう一つ近い言葉に integrity があります。これは「誠実さ」「高潔さ」を意味し、言っていることと実際の行動が一致している、筋の通った人物であることを表します。「人格者」を英語で表現するとき、a person of character とも a person of integrity とも言えるのは、品性という言葉が持つ「内面の一貫性」という核が、英語の中でも character と integrity という二つの言葉に分かれて受け継がれているからです。日本語の「品性」一語が担っている範囲を、英語は少し違う切り方で分担している、と見ることもできます。

「品性下劣」と「品性高潔」、対になる四字熟語

この言葉は、しばしば四字熟語の形で対比的に使われます。「品性下劣」は性格や人柄が卑しく、言動や振る舞いが下品であることを表し、「品性高潔」はその正反対で、性格や人柄が気高く品があることを表します。

「下劣」の「下」は場所や身分、程度が低いことを示し、「劣」は質が悪いことを示す字です。一方の「高潔」は、「高」が高いこと、「潔」が汚れのない純粋さを示す字で、こちらは古代中国の文献に由来する由緒ある言葉だとされています。同じ「品性」という土台の上に、正反対の評価を乗せる二つの四字熟語が存在していること自体が、この言葉がいかに評価のためのラベルとして使われてきたかを物語っています。褒め言葉にも使えて、強い非難の言葉にもなる。両極端に振れる言葉というのは、日本語の中でもそう多くありません。

戦前の学校は品性をどう教えていたのか

この言葉が社会に広まった時代、学校にはその名の通り「品性」を育てることを目的にした教科がありました。戦前の日本では、国語・算術・体操と並ぶ最重要教科として「修身」という科目が置かれていたのです。

低学年向けの修身教科書は「ウソヲイフナ」「ギョウギヲヨクセヨ」といった規範を命令口調で示し、挿絵や身近な例話を添える作りでした。学年が上がると、立派な人物の逸話集という形に変わります。勤勉と孝行の象徴として多くの教科書に取り上げられた二宮金次郎のような人物の物語を通じて、徳目を学ばせる方式です。教育勅語で示された徳目を抽象的な規範として提示し、それに応じる格言や例話を教材にして、同じ徳目を学年ごとに繰り返し学習させる。品性は一度教えれば身につくものではない、反復によってしか育たない。そういう考え方が、この教科の設計そのものに表れています。

この修身科は、戦後すぐに終わりを迎えます。1945年12月31日、GHQは修身・日本歴史・地理の三教科について、授業の停止と教科書の回収を命じました。問題にされたのは徳目そのものというより、天皇と国家への忠誠を最優先に置く軍国主義的・超国家主義的な内容が、繰り返し学習という同じ仕組みを使って教え込まれていた点です。品性を育てるための反復教育という方法論自体は、教える内容次第で両方向に使える道具だったことになります。修身に代わって1947年に導入されたのが、民主主義や公民意識を教える社会科でした。

「誰も見ていないときの行動」という、世界共通の物差し

品性を測る物差しとして、国や時代を問わず繰り返し語られる言い回しがあります。「人の本当の品性は、誰も見ていないときの行動に表れる」というものです。英語圏でも似た言葉が広く知られていて、バスケットボールの名将ジョン・ウッデンの言葉として引用されることが多いのですが、実際には彼がいつどこで最初にこの言い方をしたのかは、ウッデン研究者の間でもはっきりしていません。類似の表現は19世紀の作家チャールズ・コルトンにも見られ、誰が最初に言ったのかをめぐる議論そのものが今も続いています。

この概念の出どころを辿るほど曖昧になっていくのに、「見られていないときの振る舞いが本当の自分を表す」という感覚だけは、多くの文化で共有されている。出典不明の格言が延々と引用され続けるのは、言っていることの中身がそれだけ多くの人の実感と一致しているからなのでしょう。

この感覚を、心理学者のジョン・サラーは2004年にインターネット上の振る舞いに当てはめて説明しました。「オンライン脱抑制効果」と呼ばれる現象で、画面を介したコミュニケーションでは、対面のときに保っている社会的・心理的な抑制が外れやすくなるという考え方です。匿名性や、相手の目を直接見ないで済むという条件が重なると、人は普段より気前よくなったり、逆に普段より攻撃的になったりします。顔が見えず、名前も知られていない場であること。その点で、ネット空間は「誰も見ていない」状況に近いものです。古くからある言葉が、インターネットという新しい環境でもそのまま試され続けている格好です。

ポジティブ心理学が品性を24の強みに分けた話

品性のような道徳的な性質は、長らく心理学の主な研究対象ではありませんでした。価値観に関わる話は科学的に測りにくいという理由からです。この状況を変えようとしたのが、2004年に心理学者のクリストファー・ピーターソンとマーティン・セリグマンが発表したVIA分類です。二人は徳や品性と呼ばれてきたものを、統計的な手法を使って科学的に測定し直すことを試みました。

VIA分類では、品性にあたるものを24の「性格的な強み」に分け、さらにそれらを知恵と知識、勇気、人間性、正義、節度、超越という6つの大きな徳目にまとめています。好奇心や創造性は知恵と知識に、勇敢さや忍耐力は勇気に、親切さや愛情は人間性に分類される、という具合です。長く哲学や道徳の言葉で語られてきた「品性」を、調査票と統計で扱える対象に変えようとした点が、この研究の面白さです。測れないと思われていたものに、測るための手続きを与えようとする発想そのものが、一種のトリビアとして成立しています。

アメリカの教室で、形を変えて続く「品性」の授業

日本で修身がなくなった後も、「学校で品性にあたるものを育てる」という発想自体は消えていません。むしろ海を渡った先で、別の名前をまとって生き続けています。

1990年代後半からアメリカの教育現場で広がった「ソーシャル・エモーショナル・ラーニング(SEL)」は、その代表例です。この分野を主導する団体CASELは、自分の感情を理解する「自己認識」、感情をコントロールする「自己管理」、他者の立場を理解する「社会的認識」、良い関係を築く「関係づくりのスキル」、責任ある選択をする「責任ある意思決定」という5つの力を柱に据えています。徳目を反復させた修身科とは手法がまるで違い、ロールプレイやグループワークを通じて子ども自身に感情や関係性を扱う経験をさせるのが特徴です。それでも、知識の習得だけでなく人としての振る舞いを学校教育の中で育てようとする狙いは、100年以上前の修身科とそう遠くありません。呼び名そのものはもう使われませんが、教える側の問題意識は時代と国境を越えて繰り返されている格好です。

日常のどんな瞬間に品性がにじみ出るのか

品性は、普段はそれほど意識されません。表に出てくるのは、むしろ何かの作業や緊張が終わった直後の、ふっと気が緩んだ瞬間だとよく言われます。取り組んでいる最中は作業そのものに頭が占められていますが、それが終わって一息ついたときの振る舞いに、普段抑えていたものが出やすくなるという見立てです。

具体的な場面としてよく挙げられるのは、ドアを静かに閉める、物を両手で丁寧に扱うといった動作の質、相手によって態度を変えないという一貫性、そして言葉遣いです。敬語の使い方そのものよりも、乱暴な言葉や俗語をほとんど使わず、穏やかな話し方を保てるかどうかが見られやすい部分だとされています。

お金の使い方にも、同じことが表れます。同じ金額を使うにしても、自分が重要な人物だと確認するために大金を飲み会に投じるのと、周囲を喜ばせるささやかなサプライズのために使うのとでは、表面上の金額は変わらなくても、その奥にあるものはまったく違います。何にお金を使うかではなく、何のために使うかに品性が出る、というわけです。レジでの対応、電車で席を譲るかどうか、店員への口調。立場が自分より弱い相手に対する振る舞いほど、その人の品性を測る材料になりやすいとも言われます。相手が自分にとって得か損かという計算が働きにくい場面だからです。

心理学の研究では、人がお互いの信頼性を判断するのに、わずか0.1秒ほどしかかかっていないことも分かっています。表情や立ち振る舞いから第一印象が形づくられ、その後の評価にまで影響を及ぼす現象は「初頭効果」と呼ばれます。品性そのものは数秒では測れないはずです。それでも人は、その数秒の振る舞いから品性を推し量ろうとする。この落差こそ、品性という言葉が明治の翻訳者から現代の心理学者まで、長く人を悩ませてきた理由なのかもしれません。

参考

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-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
“偏”に対して真っ直ぐに、“愛”を注ぐからこそ持ち得た独自の眼差し。
そんな偏愛者の主観に満ちたピントから覗かれる世界には、
ウィットに富んだ思いがけない驚きが広がります。
なんだかわからず面白い。「そういうことか」とピンとくる。

偏愛のミカタ PinTo Times