【江戸時代の食事】ご飯は1日5合!? 庶民のメニューや驚きの食事情を徹底解説

毎日当たり前のように口にしている「1日3食」の習慣や、「お寿司」「天ぷら」といった和食の代表格。実はこれら、すべて江戸時代にルーツがあることをご存知でしょうか。

しかし、当時の食事情を深く掘り下げてみると、現代の私たちからは信じられないような驚きの生活が見えてきます。

大盛りの白米を1日5合もたいらげていた江戸っ子たちに、最高級の食材を使いながらも「冷や飯」を食べるしかなかった将軍様。そして、忙しい職人たちを支えた江戸の「ファストフード文化」。

本記事では、そんな江戸時代のリアルな食生活をひも解きます。現代との違いに驚きつつ、奥深い江戸の食文化の世界を覗いてみましょう。

江戸時代のご飯(白米)に関する驚きの事実

ご飯を炊くのは「朝の1回」だけ!その理由とは?

炊飯器のスイッチ一つでいつでも温かいご飯が食べられる現代とは違い、江戸時代の庶民にとって「ご飯を炊く」のは一苦労でした。当時の長屋(庶民の集合住宅)には、ご飯を炊くのは「朝の1回」だけという暗黙のルールがあったのです。

背景にあったのは、深刻な住宅事情と経済的な理由です。

当時は薪(まき)を使って竈(かまど)で火を起こしていましたが、薪は古雑巾まで燃やして燃料にするほど高価で貴重でした。そのため、1日分を朝にまとめて炊いてしまうのが一番効率的だったのです。

また、夏場に火の熱気をまともに受ける竈の前に立つのは大変な重労働。涼しい早朝に炊飯を済ませることは、合理的な生活の知恵でもありました。炊き上がったご飯はお櫃(ひつ)に移して保存し、昼や夜は「冷や飯」として食べていました。

1日に白米を5合も食べていた!?江戸っ子と白米のカンケイ

現代人の1日の米消費量は、お茶碗数杯程度(約1合〜1.5合)です。しかし、当時の江戸の成人男性は、なんと「1日5合」もの白米を食べていました。重さにすると約750グラム、炊き上がりのご飯なら約1.6キログラムにもなる驚異的な量です。

これほど大量の白米を消費した理由は、「過酷な労働環境」と「おかずの少なさ」にあります。

移動も仕事もすべて人力だった江戸時代は、消費カロリーが桁違い。それを補う莫大なエネルギー源として、大量の米が必要だったのです。

さらに、武士の給料が「米」で支払われる石高制だったため、江戸には全国から大量の米が集まる流通網が完成していました。元禄から享保期にかけて、水車を使った精米技術が向上したことも大きいです。

肉を食べる習慣がなく、魚も高級品だった当時。庶民は「少ないおかずで大量の白米をかき込む」ことで命をつないでいました。

白米の食べ過ぎで大流行した「江戸患い(脚気)」

白米を愛してやまない江戸っ子たちですが、その極端な食生活は思わぬ弊害を生み出します。都市部特有の恐ろしい病、「江戸患い(えどわずらい)」の大流行です。手足が痺れ、倦怠感に襲われ、重症化すると心不全で死に至ることもありました。

この病の正体は、ビタミンB1欠乏による「脚気(かっけ)」です。

玄米を精米する過程でビタミンB1が豊富な胚芽やぬかが削り落とされるうえ、栄養を白米だけに頼っていたため、慢性的な栄養不足に陥ってしまったのです。

不思議なことに、この病気は江戸へ単身赴任してきた武士がよく発症し、故郷に帰って雑穀や玄米を食べるとケロリと治ったことから「江戸患い」と呼ばれました。

やがて江戸の人々は経験から、「蕎麦(そば)」や「ぬか漬け」を食べると体調が良くなることに気づき、無意識のうちにビタミンB1を補う知恵を身につけていきます。(※ビタミンB1が脚気に効くと科学的に証明されたのは、明治時代に鈴木梅太郎が成分を発見してからのことです。)

1日3食の習慣は江戸時代から始まった!

なぜ「1日2食」から「1日3食」に変化したのか?

現代の私たちにとって「朝・昼・晩」の食事リズムは当たり前ですが、平安時代から江戸初期まで、日本人は長らく「1日2食」でした。

ターニングポイントとなったのは、1657年の「明暦の大火(めいれきのたいか)」です。江戸の町を焼き尽くした大火災からの復興のため、全国から職人が集められました。しかし、過酷な肉体労働をする彼らに朝夕2食では体力がもつはずがありません。そこで正午過ぎにも「昼食」を出すようになり、これが1日3食のキッカケになったと言われています。

さらに江戸中期にかけて、照明用の「菜種油」が安く出回るようになり、夜遅くまで仕事や遊びができるようになりました。起きている時間が長くなればお腹も空くため、次第に1日3食の文化が根付いていったのです。

朝・昼・夜でご飯の食べ方はどう違った?

1日3食になっても「ご飯を炊くのは朝だけ」というルールは健在でした。そのため、時間帯によって食事の楽しみ方が大きく異なります。

  • 朝の食事: 1日で唯一、ホカホカのご飯が食べられる至福の時間。炊きたての白米に、熱い味噌汁と自家製の漬物を合わせるのが基本スタイルです。
  • 昼の食事: お櫃の「冷や飯」。外で働く労働者はお弁当としておにぎりを持参し、家にいる人は冷や飯におかずを添えて食べていました。
  • 夜の食事: 引き続き「冷や飯」ですが、お湯や熱いお茶をかけて「お茶漬け」にしてかき込むのが主流。野菜の煮物や、たまに焼き魚が添えられることもありました。

ちなみに、江戸では朝にご飯を炊きましたが、関西(上方)では昼に炊くのが一般的でした。関西人が冷や飯の茶漬けを好まなかったことも、地域による食文化の違いを表しています。

江戸時代の基本的な食事メニュー(献立)

基本スタイルは「一汁一菜」!ご飯・味噌汁・漬物が定番

江戸庶民の食卓は、想像以上にシンプルで質素でした。基本は「一汁一菜(いちじゅういっさい)」。山盛りのご飯に、味噌汁、漬物、そしておかずが1品だけというスタイルです。

おかずの種類は少なくても、江戸っ子たちはそれを存分に楽しんでいました。当時の人気おかずを相撲の番付に見立てた「日々徳用倹約料理角力取組」というランキング表が流行したほどです。

役職(順位)精進方(植物性のおかず)魚類方(魚介のおかず)
大関(トップ)八杯豆腐(豆腐の煮物)鰯のめざし
関脇昆布と油揚げの煮物あさりのむき身・切り干し大根
小結きんぴらごぼう芝エビのから揚げ

このように、安くて手に入りやすい豆腐や乾物、小魚が大人気。これらが、毎日の胃袋を支える「最強のおかず」として愛されていました。

納豆や豆腐が大人気!朝のご飯に欠かせない行商人「振売り」

忙しい江戸の朝を支えたのが、天秤棒(てんびんぼう)を担いで路地の奥までやってくる「振売り(ふりうり)」と呼ばれる行商人たちです。冷蔵庫がない当時、長屋の主婦たちはその日に食べる食材を毎朝彼らから少しずつ買い求めていました。

特に人気だったのが「納豆」と「豆腐」です。豆腐売りは1日に3回も来るほど需要が高く、納豆売りは包丁で細かく叩いた「叩き納豆」を青菜と一緒に売っていました。これにお湯と味噌を合わせるだけで、風味豊かな「納豆汁」が完成します。

時間も手間も省きたい江戸っ子にとって、まさにインスタント味噌汁の先駆けとも言える最高の朝食メニューでした。

【身分別】江戸時代のご飯事情の違い

農民のご飯:白米ではなく「かて飯」や雑穀が中心

江戸で白米文化が花開く一方、米の生産者である農民の食生活は極めて対照的でした。

農民にとって米は「年貢(税金)として納めるもの」。幕府の『慶安の御触書』でも「米を多く食べず、麦や粟、稗、大根などの雑穀を食べなさい」と厳しく指示されており、日常的な贅沢は許されていません。

そのため主食は、少量の米に大根や芋を混ぜてかさ増しした「かて飯」。純粋な白米を口にできるのは、お正月やお盆などの特別な「ハレの日」に限られていました。

武士のご飯:身分や位によって品数やおかずが激変

一口に武士と言っても、食事内容は天と地ほどの差がありました。

大名や上級武士の食卓は格式を重んじた「本膳料理」で、毎食のように鯛や平目といった高級魚が並ぶ贅沢な献立です。

しかし、大多数を占める下級武士の食生活は庶民以上に質素でした。給料として支給される米(白米)でお腹を満たすことはできても、現金収入が少ないためおかずを買う余裕がなかったのです。日々のおかずは庭先で育てた野菜の煮物やたくあん程度で、魚を食べられるのは月に数回あれば良い方。また「コノシロ(この城を食う)」「フグ(主君以外のために死ぬのは不忠)」は食べないといった武士特有のタブーもありました。

将軍のご飯:豪華絢爛!しかし毒見のせいで「冷や飯」に?

徳川将軍の食事は、江戸城内の広大な厨房で数百人規模の役人が作り、全国から献上された最高級食材が使われました。

しかし、そこには権力者ならではの皮肉な事実が隠されています。暗殺を防ぐための厳格な毒見システムのせいで、「出来立ての熱々料理を食べられない」のです。

御膳奉行による毒見から始まり、何人もの役人の手を経て安全性が確認される頃には、せっかくの豪華な料理もすっかり冷めきってパサパサに。さらに体調管理のため、食前と食後のご飯の重さを量るという徹底ぶりでした。

命を守るための厳重なシステムが、食事の「美味しさ」を奪ってしまっていたのは何とも残念な話です。

江戸のご飯を彩った「ファストフード」文化

屋台で気軽に楽しむ!寿司・天ぷら・蕎麦の誕生

日本が世界に誇る「寿司」「天ぷら」「蕎麦(そば)」。実はこれら、江戸の町で「ファストフード」として流行したものです。

地方からの出稼ぎ独身男性が多かった江戸では、狭い長屋で自炊ができず、手軽な外食の需要が高まっていました。明暦の大火以降に設けられた火除け地(広場)に移動式の「屋台」が集まり、盛り場が形成されていきます。車両税逃れのために「人が肩で担いで移動できるサイズ」に設計された屋台は、まさに当時のフードトラックでした。

料理の種類当時の価格目安現代の価格換算(目安)食べ方の特徴
蕎麦(そば)16文約400円安くてすぐにお腹が満たされる。脚気予防にも人気。
握り寿司4文〜8文約100円〜200円現代のおにぎりほどの大きさ。立ち食いスタイル。
天ぷら4文約100円串に刺して立ち食い。共用のつゆにつけて食べる。
※1文=約25円換算

蕎麦は一杯16文(約400円)でお腹を満たし、寿司は現代のような高級路線ではなく、おにぎり感覚でサッとつまむスナック。天ぷらも串に刺した状態で大根おろしと共に立ち食いするのが「粋」とされました。手軽さと美味しさを兼ね備えた屋台文化が、江戸の外食産業を大きく発展させたのです。

江戸時代のご飯は現代の食文化のルーツ!

大盛りの白米を1日5合もかき込み、燃料節約のためにご飯を炊くのは朝1回だけ。そして、独身者の需要から生まれた屋台でのファストフード文化。

現代から見ると驚きの連続ですが、「1日3食の習慣」や「朝の納豆と豆腐」「寿司・天ぷら・蕎麦」など、現在の和食文化のルーツは間違いなく江戸時代にあります。限られた条件の中で生み出された「美味しく食べるための知恵」や「無駄を省いた合理性」は、今の時代にもしっかりと受け継がれているのです。

今日の食事の際は、少しだけ江戸の人々の賑やかな食卓に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。いつものご飯が、さらに味わい深く感じられるかもしれません。

参考

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-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
“偏”に対して真っ直ぐに、“愛”を注ぐからこそ持ち得た独自の眼差し。
そんな偏愛者の主観に満ちたピントから覗かれる世界には、
ウィットに富んだ思いがけない驚きが広がります。
なんだかわからず面白い。「そういうことか」とピンとくる。

偏愛のミカタ PinTo Times