「無趣味」の22.5%を分けているのは、熱量ではなく「言語化」と「隣人」という装置

飲み会の自己紹介で「趣味は?」と聞かれ、うまく言葉が出てこない人がいる。好きなものがまったく無いわけではない。休日には近所を少し遠回りして歩くし、動画配信で古い映画をよく観る。ただ、それを「趣味です」と言い切れるほどの輪郭を、自分でもまだ持てていない。「特にこれといって」と答えたあと、少し気まずい沈黙が流れる。その隣で、鉄道の型式の違いやコーヒー豆の焙煎度合いについて、聞いてもいないのに20分語り続ける人がいる。話す内容そのものより、迷いなく言葉が出てくる様子に、羨ましさに近い感情を抱いた経験がある人も多いはずだ。この二人の差を、私たちはつい「もともとの熱量の差」として片付けてしまう。好きになれる人と、なれない人がいる、という一種の才能論として。

博報堂生活総合研究所が1992年から隔年で続けている「生活定点」調査によると、「自分は無趣味である」と答えた人は2024年に22.5%だった。調査を始めた1998年比で3.1ポイント、前回2022年比で2.7ポイント下がり、過去最低の水準にある。年代別では20代が16.7%と全体より約6ポイント低く、60代は25.5%と約3ポイント高い。性別では女性が男性より約5ポイント高い。

この数字だけを見ると、「好きな対象を持たない人が世の中に一定数いる」という単純な事実の確認で終わってしまいそうになる。無趣味であることを気にしている本人も、たいていはこの読み方をしている。自分には他の人にあるはずの何かが欠けている、と。だが、趣味が深まっていくプロセスそのものを追った研究に目を向けると、少し違う読み方ができるかもしれない。

才能論という説明の座り心地の良さ

「無趣味」の22.5%を分けているのは、熱量ではなく「言語化」と「隣人」という装置

「好きになれる人」と「なれない人」がいる、という説明は直感的に馴染みが良い。誰しも、自分がなぜか強く惹かれてしまう対象と、周りが夢中になっているのにどうしても入り込めない対象の両方を経験している。同じ映画を観ても細部まで語れる人と、感想が「面白かった」で終わる人がいる。同じ商店街を歩いても、店の看板の書体まで気になる人と、何も引っかからずに通り過ぎる人がいる。その差を本人の内側にある熱量の総量に還元してしまえば、説明としては一応筋が通る。無趣味な人は、たまたまその総量が少なかっただけだ、と。

ただし、この説明には一つ弱点がある。「では、その熱量は最初からそこにあったのか」という問いに答えられない。趣味に深く詳しくなった人自身に聞いても、最初から明確な対象への確信を持っていたと答える人ばかりではない。むしろ、なんとなく始めて、なんとなく続けているうちに、ある時期から急に言葉が出るようになった、という感覚を語る人が少なくない。その「途中から」の部分を才能論は説明できず、素通りしてしまう。

言語化という最初の脱出口

「無趣味」の22.5%を分けているのは、熱量ではなく「言語化」と「隣人」という装置

東京大学の杉山昂平氏らが、アマチュア・オーケストラの団員15名に行った回顧的インタビュー調査(日本教育工学会論文誌, 2018)は、この「途中から」の部分を具体的に分解している。1回1〜3時間、年表を使いながら人生を振り返ってもらう半構造化インタビューを重ねたこの調査によれば、団員たちは活動の初期段階では「具体的な面白さを言語化できていない」状態にあることが多い。合奏の何が面白いのか、自分でもうまく説明できないまま、なんとなく練習に通っている時期がある。それが、人間関係や役職を通じてアンサンブルの面白さに触れる経験を経て、初めて言葉になっていく。

この研究では、興味の深まりに3つの型があることも示されている。漠然とした無自覚から抜け出す型、上達や達成へのこだわりからアンサンブル自体の面白さへ移っていく型、そして参加すること自体に価値を見いだす型である。3つに共通するのは、深まりが最初から用意されていた強い興味の結果ではなく、言語化という後天的な出来事を通じて起きているという点だ。段階ごとに、団員たちは異なる共同体に移り、異なる役割を与えられながら、その都度新しい言葉を獲得していく。最初の段階にいる団員は、後から振り返って初めて「あのときはまだ何が楽しいのか分かっていなかった」と語る。

言い換えれば、趣味に詳しくなっていく人も、出発点では「無趣味」を自認する人とそう変わらない、漠然とした状態にいたのかもしれない。分かれ道は、その漠然とした面白さに言葉を与える機会に出会えたかどうかにある。

隣人と観客という、もう一つの装置

「無趣味」の22.5%を分けているのは、熱量ではなく「言語化」と「隣人」という装置

言語化だけでは、話は完結しない。同じ研究グループがアマチュア写真家14名を対象に行った続く調査(日本教育工学会論文誌, 2020)は、興味を深めるもう一つの装置を特定している。「刺激的な隣人」、つまり自立的に対象を追いかける他の趣味人の存在と、「不特定の観客」、つまり自分の作品に反応を返してくれる存在である。前者は、自分とは違う撮り方や被写体を追う人を間近で見ることで、対象の奥行きに気づかせてくれる。後者は、撮った写真に誰かが反応を返すことで、それ自体が次の被写体を探す動機になる。この二つは、写真という基本的に個人作業になりがちな活動の中でも、興味を次の段階へ押し上げる役割を果たしていた。しかも、これらのネットワークはSNSに限らず、展覧会や撮り歩き会のような対面の場でも形成されるという。画面越しの「いいね」だけでなく、会場で立ち止まって交わす短い感想のやり取りも、同じ役割を担っている。

写真を撮ること自体は一人で完結する作業だ。それでも、誰かの写真を見て「こんな撮り方があるのか」と気づいたり、自分の写真に感想をもらって次の被写体を探しに出かけたりする瞬間に、興味は静かに背中を押されている。カメラを構えている間は独りでも、興味そのものは他者とのやり取りの中で育っている。

個人か集団かを問わない共通構造

「無趣味」の22.5%を分けているのは、熱量ではなく「言語化」と「隣人」という装置

オーケストラという集団活動と、写真という個人作業。活動の形は正反対に見えるが、どちらの研究でも「深まりは他者接触を伴う」という同じ構造が観察されている点は興味深い。趣味に一人でのめり込んでいくように見える人も、実際には誰かの存在に興味を映し返してもらいながら深まっている可能性がある。

この二つの研究を重ねると、「深まり」を分けているものの輪郭が変わってくる。本人の内側にある興味の量ではなく、①漠然とした面白さが言葉になる契機、②自分の興味を映し返してくれる他者との接触、という外側の装置に出会えたかどうかである。活動の形態が集団か個人かを問わず同じ仕組みが働いているらしいという点は、この見方が一つの偶然の事例ではなく、ある程度共通した構造として扱える根拠になる。詳しくなること自体が、独力の成果というより、誰かとの関わりの中で起きる出来事だという見方は、趣味というものに対する直感的なイメージを少しだけ揺さぶる。

才能論を装置の有無に置き換えてみる

「無趣味」の22.5%を分けているのは、熱量ではなく「言語化」と「隣人」という装置

この構造をそのまま「無趣味」側に当てはめてみると、22.5%という数字の見え方も変わってくる。それは「好きな対象がゼロの人の割合」ではなく、「好きの芽はあるけれど、言語化とネットワーク接触という二つの装置にまだ出会っていない人」を一定数含んでいるかもしれない、という見立てが浮かんでくる。もちろん、これは15名と14名という限られた対象への質的研究から導かれる仮説であり、22.5%の内訳を直接示すものではない。それでも、才能論では説明しきれなかった「途中から言葉が出るようになった」という感覚に、一つの補助線を与えてくれる。

この見立てが興味深いのは、才能の有無という、本人にはどうにもできない前提の話から、装置に出会えたかどうかという、環境や機会の話に置き換えられる点にある。前者は生まれつきの差として受け止めるしかないが、後者は「たまたまその機会がまだ無かった」という、もう少し軽い話として受け止められる。

装置に出会っていないだけ、という可能性

「無趣味」の22.5%を分けているのは、熱量ではなく「言語化」と「隣人」という装置

「無趣味」を自認する22.5%の中に、対象への熱量そのものが欠けている人と、まだ言葉にする機会や刺激的な隣人に出会っていないだけの人が、どちらも混ざっているとしたら。後者にとって必要なのは、才能に目覚めることではなく、たまたま誰かと話す機会や、感想を交わす相手に出会うことなのかもしれない。少し遠回りした散歩も、古い映画の感想も、まだ誰にも言葉で語ったことがないだけで、実は言語化前の「趣味の芽」なのかもしれない。

22.5%という数字は、過去最低を更新し続けている。それを「好きを持たない人が増えている」という寂しい話として読むこともできるし、「言葉になる前の好きを抱えたまま、まだ隣人に出会っていない人が一定数いる」という、少し違う話として読むこともできる。どちらが正しいかを決めつけるための材料は、まだ手元に無い。ただ、後者の可能性を頭の片隅に置いておくだけで、次に誰かが「趣味は特に無くて」とつぶやいたときの相槌が、少し変わるかもしれない。

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参考

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-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
“偏”に対して真っ直ぐに、“愛”を注ぐからこそ持ち得た独自の眼差し。
そんな偏愛者の主観に満ちたピントから覗かれる世界には、
ウィットに富んだ思いがけない驚きが広がります。
なんだかわからず面白い。「そういうことか」とピンとくる。

偏愛のミカタ PinTo Times