平等と公平と公正の違いは、あの有名な一枚の絵が教えてくれる

「平等」「公平」「公正」。学校の道徳の時間や会社の研修で、この三つの言葉の違いを一度は聞いたことがあるかもしれません。多様性に関する研修資料でも、よく取り上げられる組み合わせです。説明によく使われるのが、背の高さが違う三人の子どもが箱に乗って、野球場の柵の外から試合を見る一枚のイラストです。この絵には作者がいます。描かれたのは、意外に最近のことです。言葉の意味を掘っていくと、法律の歴史や将棋、ゴルフ、パラリンピックにまで話がつながっていきます。

平等・公平・公正、辞書の上では何が違うのか

三つの言葉を並べて見ると、使われている漢字がすでにヒントになっています。手がかりは「平」と「公」です。「平等」の「平」はひとしいこと、「公平」と「公正」の「公」はおおやけ、つまり個人の都合を離れた立場を指します。

身近な例で考えてみます。一般的な解説では、平等は全員を同じように扱うこと、公平は一人ひとりの事情を考慮して誰も不利にならないように扱うこと、公正はルールや基準に従って正しく判断することとされています。学校でお菓子を配る場面を例にすると、全員に同じ数のお菓子を配るのが平等、体の大きさや食べる量の違いに応じて配り方を変えるのが公平、あらかじめ決めたルールどおりに配るのが公正です。

同じ「正しさ」を扱っているのに、平等は結果の形、公平は配慮の仕方、公正は手続きの正しさに重心があります。この三つが完全に一致する場面は実はそう多くありません。

辞書的なニュアンスをさらに絞ると、もう一つ違いが見えてきます。公平は見る人の心の中にある「偏りのなさ」を指すことが多く、公正はあらかじめ決められた基準やルールに合っているかどうかを指すことが多いという傾向です。審判が「公平な目で見る」と言えば、その人個人の態度の話です。「公正なルール」と言えば、制度そのものの話になります。

日本国憲法が守るのは「絶対の平等」ではない

日本国憲法第14条は「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」と定めています。江戸時代までの日本では、武士・農民・町人といった身分によって受けられる扱いが大きく違いました。この条文は、身分による差別をなくし、法律の上では誰もが対等であることを宣言したものです。

ただし憲法学の通説では、第14条が保障するのは絶対的平等ではなく相対的平等だとされています。全員を機械的に同じ扱いにする原則ではありません。合理的な理由がある区別は許容されるという考え方です。未成年者の飲酒や喫煙を制限する法律は、年齢という基準で人を区別していますが、合理的な理由があるため平等原則に反しないと説明されます。憲法の「平等」は、単純な一律扱いにとどまらない構造を持っています。

この「合理的な理由があるかどうか」を実際に裁いたのが、1973年4月4日の最高裁判決です。刑法200条は、尊属殺人(自分の親など直系の尊属を殺す罪)の法定刑を、普通の殺人罪よりも重く、死刑または無期懲役に限定していました。最高裁は、尊属を敬うという立法目的自体は否定しなかったものの、刑の重さの差があまりに大きく、憲法14条に違反すると判断しました。最高裁が法律そのものを違憲と判断した、日本で最初の例です。問われたのは、違う扱いをすること自体ではありません。差の大きさと、その理由です。相対的平等という考え方が、この判決によく表れています。

野球を観る3人の子供、あの絵は誰が描いたのか

冒頭で触れたイラストには、はっきりとした作者がいます。2012年12月19日、アメリカのシンシナティ大学で経営学を教えるクレイグ・フローレ氏が、三人の子どもが箱に乗って柵の向こうの野球を見る絵をGoogle+に投稿しました。興味深いのは、最初の版には「equity(公平)」という言葉そのものが使われていなかったことです。

フローレ氏自身の説明によると、きっかけは2012年のアメリカ大統領選挙の直後、保守派の論客と議論していたことでした。「機会の平等」だけでは不十分で、結果の公平さも考慮すべきだという自分の主張を説明するために、パワーポイントでこの絵を作ったといいます。当初のラベルは「保守派にとっての平等」と「リベラルにとっての平等」で、equityという単語自体は使われていませんでした。平等という同じ言葉の内側に、立場によって違う意味が入り込んでいることを示す絵だったことになります。

絵は反響を呼びましたが、出回っていたのは画質の粗いコピーばかりでした。そこで非営利団体のInteraction Institute for Social Change(IISC)が2016年に動きます。イラストレーターのアンガス・マグワイアに依頼し、同じ構図をきれいに描き直しました。この版が世界中の研修資料や記事で使われるようになり、現在知られている形が定着しています。身近な道徳教材として広まった絵の出自は、特定の個人による10年ほど前の投稿でした。

柵を外した4枚目の絵、同じ構図に加わった「解放」という視点

話はここで終わりません。フローレ氏の絵が広まった後、本人とは別の人たちの手によって、構図を変えた派生版が次々に作られました。パネルのラベルが「justice(正義)」や「fairness(公正さ)」に変えられたものも登場し、最終的に「equality(平等)」と「equity(公平)」という組み合わせで広く定着していきます。

中には、柵そのものを取り払ってしまう版もあります。箱の高さを調整するのではなく、そもそも視界を遮っていた柵自体をなくせば、身長に関係なく誰もが試合を見られるという発想です。この版はしばしば「liberation(解放)」と名付けられています。一つの絵をきっかけに、問題を個人の側の違いとして扱うか、障壁そのものの側に置くかという、まったく別の視点が加わっていったことになります。最初の一枚から数えると、この構図はすでに何世代も改変を重ねてきました。

フローレ氏自身は後年、この絵について、ワークショップで使われるうち参加者の想像力を広げるというより、むしろ型にはめてしまっているのではないかと振り返っています。議論を伝えるために作った一枚が、いつのまにか思考の枠そのものになっていった、という振り返りです。

英語の「エクイティ」は、もともと裁判所の名前から生まれた言葉

イラストの説明で使われていた「equity」という英語自体にも、独自の歴史があります。この語は14世紀に英語に入り、古フランス語のequiteを経て、ラテン語のaequitas、さらに「等しい」を意味するaequusに遡ります。

中世イギリスでは、コモン・ロー(普通法)という判例の体系が14世紀から15世紀にかけて硬直化しました。個別の事情に応じた救済を与えられないケースも目立つようになります。そこで国王の側近である大法官が、コモン・ローでは救済されない訴えを個別に聞き入れるようになります。15世紀半ば以降には大法官府裁判所(Court of Chancery)という専門の裁判所が分化・独立し、その裁定の積み重ねがエクイティ、日本語で言う衡平法という体系になりました。

つまりエクイティは、もともと抽象的な美徳の名前ではありません。硬すぎる法律を個別の事情に応じて補正する、具体的な裁判所の仕組みの名前でした。あの絵で「公平」の訳語として使われているequityという単語の奥には、何世紀分もの法律の歴史が隠れています。

公正取引委員会の「公正」は企業同士をどう平らにするのか

言葉の使い分けは、日本の行政機関の名前にも表れています。公正取引委員会は1947年7月1日に設置された内閣府の外局で、独占禁止法の運用を通じて市場の競争環境を監視する役割を担っています。

この名前にも、三つの言葉の違いが表れています。正式名称に使われているのは「公正」という言葉です。企業の規模や資本力はもともと一社ごとに異なり、そこを無理に揃える発想自体が成り立ちません。委員会が目指しているのは、規模の違う企業同士が同じルールのもとで競争できる状態、つまり取引のプロセスにおける公正さです。結果を揃えることよりも、ルールを揃えることを優先した、行政機関らしい名付け方です。

実際の運用でも、企業の規模に関係なく同じルールが適用されます。2025年には、米グーグルがスマートフォンの初期画面に自社の検索サービスを搭載するよう取引先に求めていた行為について、公正取引委員会が排除措置命令を出しました。巨大IT企業に対する排除措置命令としては、日本で初めての例です。相手の規模がどれほど大きくても、独占禁止法という同じ基準で判断する。これも「公正」の実践のひとつです。

将棋の駒落ちは江戸時代から続くハンディキャップの技術

将棋には「駒落ち」という制度があります。対局者の間に実力差があるとき、上位者が自分の駒をいくつか外してから対局を始める仕組みです。記録は16世紀まで遡ります。公卿の日記である『言継卿記』や『舜旧記』には、すでに中将棋でのハンデ対局についての記述が残っており、江戸期には段位に基づく手合割として公式に整備されました。

駒落ちが成立するためには、どの駒を何枚外せば実力差を埋められるかという、長年の対局データに基づいた調整が必要です。全員が同じ駒数で戦うことを平等と呼ぶなら、駒落ちはその平等を手放し、勝負そのものを成立させるために公平を優先した制度です。数百年前から、日本の盤上遊戯はこの発想を実装していました。駒落ちにはいくつもの型があり、上位者が飛車だけを外す「飛車落ち」、飛車と角の両方を外す「二枚落ち」、さらに多くの駒を外す「四枚落ち」「六枚落ち」まで段階があります。実力差が大きいほど外す駒が増え、対局前にどの型を選ぶかで、ちょうど勝負が成立する差に調整する仕組みです。

ゴルフのハンディキャップを生んだ、400年続く公平の計算

ゴルフのハンディキャップ制度も、同じ構造を持っています。記録は400年近く前に遡ります。最古の記録とされているのは17世紀後半、スコットランド・エディンバラの学生トーマス・キンケイドが残した日記で、19世紀末になって「ハンディキャップ」という言葉自体が定着しました。公平な基準づくりの先駆けとなったのは1890年代にレディーズ・ゴルフ・ユニオンが導入した仕組みで、現在は世界共通のルールであるワールドハンディキャップシステム(WHS)に引き継がれています。日本でも日本ゴルフ協会(JGA)が同じ仕組みを運用し、J-sysと呼ばれるサービスを通じて、アマチュアゴルファー一人ひとりの実力を指数として管理しています。2019年までは、世界に6つの地域別ハンディキャップシステムが並び立っていました。同じ実力のゴルファーでも、プレーする地域によって数値が変わってしまうという不具合があったため、2020年1月にWHSへ統一されました。プレーする場所が変わっても、同じ基準で公平に競える仕組みが、ようやく世界共通になったわけです。

総スコアからハンディキャップを引いた「ネットスコア」で勝敗を決めることで、プロと初心者はハンディキャップなしでは成立しない勝負を、同じコースで戦います。野球を見る3人の子どもと同じく、スタート地点を調整することで初めて対等な競争が成立する、という構造がここにもあります。

パラリンピックが陸上100mだけで16種類の金メダルを用意する理由

もっとも現代的で規模の大きい例が、パラリンピックのクラス分け制度です。障害の種類や程度によって選手を区分する仕組みで、専門の資格を持つ判定員が身体機能の検査、試技でのスキル評価、実際の大会でのプレー観察という複数の段階を経て判定します。国際パラリンピック委員会は筋力低下、四肢欠損、脚長差、低身長、視覚障害、知的障害など10種類の障害区分を定めています。視覚障害の陸上選手だけでも、T11からT13まで3段階のクラスがあります。T11は光を感じる程度までの最も重い障害、T13は視力0.04から0.1程度までを指し、数字が小さいほど障害が重いという決まりです。T11の選手全員と、T12の選手の一部は、目の代わりとなる「ガイドランナー」とロープや手でつながり、二人一組で同時に走ります。

この仕組みのもとでは、同じ「100m走」でも出場する選手の障害によってクラスが分かれ、東京パラリンピックの陸上男子100mでは、クラスの異なる16人の金メダリストが誕生しました。一つの種目から一人の金メダリストしか出ない通常の大会とは、勝負の設計がまったく違います。同じ条件で全員を走らせる平等とは別の設計です。条件のそろった集団ごとに公平な競争を成立させる考え方が、ここまで細かく制度化されています。

大相撲が体重別階級を持たない、もう一つの選択

ここまでは、条件を調整して公平や公正をつくる仕組みを見てきました。一方で、調整をしないという選択をしている競技もあります。大相撲には体重別の階級がありません。横綱と最も軽い力士の体重が2倍近く違っても、同じ土俵で戦います。

柔道やボクシングは、国際競技として普及する過程で体重別の階級を採用しました。柔道ももともとは無差別級が原則で、体重制は国際化にあわせて取り入れられた仕組みです。これに対して大相撲は、プロの大会として体重別を導入したことがありません。アマチュア相撲の大会では体重別の運営が定着している一方、大相撲だけがこの慣行を保っているという対比もあります。

相撲の起源が神に捧げる儀式にあるという説明もよく語られます。もとから体格差を調整する発想自体がなかった、という見方です。殴る・蹴るといった打撃技が禁止され、体重の差だけでは勝敗が決まらない技の体系になっている点も、無差別のまま続けられる理由のひとつとされています。平等・公平・公正のどれを選ぶか、という話だけではありません。そもそも調整しないという選択肢も、土俵の上には残っています。

三人の子どもが箱に乗る一枚の絵から始めて見渡すと、景色が変わります。平等・公平・公正はどれも「正しさ」を表す言葉です。ただ、実現のための設計図はまったく違います。憲法の条文、企業間の競争ルール、盤上の駒落ち、ゴルフのスコア、パラリンピックのクラス分け。それぞれの分野が、三つの言葉のどれを優先するかを選び、独自の調整の仕組みを積み重ねてきました。

参考

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-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
“偏”に対して真っ直ぐに、“愛”を注ぐからこそ持ち得た独自の眼差し。
そんな偏愛者の主観に満ちたピントから覗かれる世界には、
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偏愛のミカタ PinTo Times