紙芝居の起源は江戸の幻灯機、水あめと拍子木が育てた昭和の文化

自転車の荷台に乗った木箱の舞台、拍子木が鳴る音、水あめの甘さ。昭和の子どもたちにとって紙芝居は、テレビが各家庭に入る前の数少ない楽しみのひとつでした。今では保育園や幼稚園の教材としておなじみの紙芝居ですが、そのルーツをたどると、仏教寺院の説法や江戸時代の見世物芸、昭和初期の不況、戦時下に国策の道具として使われた歴史、テレビに敗れた紙芝居画家たちが漫画の世界で新しい表現を生み出した経緯、そして現在は世界各地に広がっているという意外な展開まで見えてきます。

仏教の「絵解き」という、紙芝居よりさらに古いルーツ

紙芝居のそもそもの源流は、江戸時代よりずっと前にさかのぼります。絵を見せながら物語や教えを語る「絵解き」という芸能は、もともと古代インドの布絵を使った語りに由来し、仏教の伝来とともに日本に入ってきました。寺院の仏塔を飾る物語絵を僧侶が説明したのが絵解きの始まりとされ、中世以降は地獄や極楽を描いた絵図を手に、各地を巡って説法をする宗教者が現れます。室町時代末期からは「熊野比丘尼」と呼ばれる女性の宗教者が、熊野観心十界図などの絵図を背負って全国をめぐり、地獄と極楽の絵解きで人々を集め、熊野三山への信仰と寄進を広めました。熊野観心十界図は縦1.5メートル、横1.3メートルほどの大きな掛け軸で、上部には人の一生を坂道にたとえた「老いの坂」が描かれ、下部には血の池地獄や不産女地獄といった生々しい地獄の光景が十の世界として並びます。熊野比丘尼はこの絵を街角に掛け、主に女性たちに向けて地獄の恐ろしさと救いの道を語りました。絵を見せて物語を語るという紙芝居の骨格は、すでにこの時代の説法の中に存在していたことになります。

江戸の見世物「写し絵」が広めた影絵芝居

絵解きから時代が進んだ江戸時代には、「写し絵」という見世物芸が生まれます。1803年、上絵師だった亀屋熊吉は「三笑亭都楽」と名乗り、東京の神楽坂の茶屋で、オランダ由来のレンズを使った木製の幻灯機を使い、有料で「江戸写し絵」を公開しました。ガラス板に描いた絵を幻灯機でスクリーンとなる和紙の幕に映し出し、背景用と人物用など複数の幻灯機を同時に操作することで絵が動いているように見せ、語りや鳴り物を加えて物語を演じるという、今のアニメーションや舞台演劇に近い発想の芸でした。関西では「錦影絵」と呼ばれ、同様の文化が広まっています。何台もの幻灯機を同時に動かして絵を重ね合わせる演出は、映画が登場する前の日本で、最も進んだ映像表現のひとつだったといえます。しかし明治後期になると、写真を焼きつけた「スライド」が輸入されるようになり、絵師の技術がなくても誰でも幻灯機を使えるようになって、家庭でも障子にスライドを映して楽しむようになります。さらに大正に入ると活動写真と呼ばれた映画が急成長し、職人芸だった写し絵は次第に見世物の主役の座を譲り渡していきました。

明治・大正に流行した紙人形劇「立絵」から生まれた名前

写し絵から時代が進んだ明治中期から大正期にかけて、今度は「立絵」という紙人形劇が大道芸として人気を集めました。うちわのような形の紙の両面に人物を描き、それを黒い幕の前で動かしながら物語を演じる形式です。演者自身はこの芸を「写し絵」と呼んでいたとも伝わりますが、見物していた客は、紙の人形が芝居を演じている様子から「紙芝居」と呼ぶようになり、ここで初めて今につながる呼び名が生まれました。紙の人形を使った芝居だから紙芝居、という言葉自体の由来です。菓子を売り、その場に立ち止まった子どもに見せて稼ぐという商売の形も、すでにこの時期から始まっていました。立絵は昭和初期まで、縁日や神社の境内、人通りの多い路地といった場所で大道芸人たちによって演じられ続け、後の街頭紙芝居が真似る舞台と客寄せの型を先取りして作り上げていたことになります。拍子木を鳴らして人を集める演出も、この立絵の時代から受け継がれてきた型のひとつです。

浅草の規制がきっかけで生まれた「平絵紙芝居」と黄金バット

紙芝居の起源は江戸の幻灯機、水あめと拍子木が育てた昭和の文化

現在知られている紙芝居の直接の祖先が生まれたのは、1929年から1930年にかけてのことです。1929年、浅草で立絵をはじめとした見世物の取り締まりが強まり、興行として続けにくくなったことをきっかけに、後藤時蔵が新しい形式を考案しました。画家の永松武雄とともに1930年に制作した『魔法の御殿』は、紙の表に絵、裏にせりふを書いて一枚ずつ差し替えながら演じる、今でいう「平絵」形式の紙芝居でした。

この新しい形式を子どもの娯楽として一気に広めたのが、1931年に永松武雄が描いた『黄金バット』です。黄金のどくろ面に中世風のマントをまとったこのヒーローは、怪盗バットをやっつける正義の味方として登場しました。子どもたちは夢中になりました。1931年から2年ほどの間に約440巻が作られる大ヒットとなりました。加太こうじは1918年に生まれ、わずか14歳で紙芝居作家としてデビューした人物で、『黄金バット』を引き継いで戦後の大阪の街頭紙芝居でも人気を保ち続けています。しばしば世界最古のスーパーヒーローの一人として紹介される作品です。

不況と失業が押し上げた紙芝居屋という商売

紙芝居の起源は江戸の幻灯機、水あめと拍子木が育てた昭和の文化

平絵紙芝居が生まれた1930年前後は、1927年の金融恐慌と1929年の世界大恐慌が重なり、日本中で失業者が急増していた時期でもあります。特別な技能や設備を必要とせず、その日のうちに現金が手に入る紙芝居屋の仕事は、生活に困った人々が次々と選ぶ商売になりました。街頭紙芝居は誕生するとすぐに子どもたちの人気者になり、不況による失業者の増大も重なって、演じ手の数は急激に増えていきます。最盛期にあたる1935年ごろには、東京だけで数千人の紙芝居屋がいて、一日に100万人を超える子どもが紙芝居を見ていたとも言われています。資格も元手もいらず、仕入れた菓子をその日のうちに売り切れば現金が懐に入るという手軽さは、職を失った人にとって何よりありがたい条件でした。昭和初期の経済の苦しさが、思いがけず子ども文化を豊かにしていた一面がありました。

水あめと拍子木が作ったビジネスモデル

街頭紙芝居が広がった最大の理由は、菓子を売る商売と一体化した仕組みにあります。紙芝居屋は自転車の荷台に木箱の舞台を据え付け、水あめやせんべいなどの菓子を引き出しに入れて、路地や公園にやってきました。拍子木を打って子どもたちを集め、菓子を買った子どもだけがその場で紙芝居を見る権利を得るという構造でした。紙芝居そのものは無料です。本業はあくまで菓子売りという点が肝でした。昭和20年代の水あめはおおむね5円から10円で売られ、追加料金を払うと煎餅のようなウエハースを貼り付けてもらえる店もありました。1950年前後には、全国で紙芝居屋がおよそ5万人にのぼったとされています。業界の裏側には、貸元と呼ばれる版元が作家や画家に手描きの作品を発注し、貸元から各地の支部、支部から個々の紙芝居屋へと作品を貸し出していくという、今の映像配信に似た流通システムも存在していました。紙芝居屋自身にも腕の差があり、一人で複数の登場人物の声を演じ分け、拍子木や太鼓で間を作る語りの技術は、講談や浪曲に近い話芸として評価されています。

戦争の道具にされた「国策紙芝居」

街頭で子どもを強く引き込む紙芝居の訴求力は、やがて国家にも利用されることになります。日中戦争から太平洋戦争にかけて、政府や軍は紙芝居の影響力に着目し、日本教育紙芝居協会などを通じて、銃後物語、体力向上、勤倹貯蓄、生活改善、防空知識、傷痍軍人慰問、スパイ防止といったテーマ別に作品を量産しました。防空演習の重要性を説いた『家庭防空陣』、金属回収運動を描いた『蘇る鐘』、アッツ島での戦闘を題材にした『玉砕軍神部隊』など、敵国の兵士や指導者を鬼や虫の姿で描いた作品も含まれていました。こうした「国策紙芝居」は1000種類を超えるとされ、一作品あたり数百枚から数万枚という規模で、国民学校や町内会の常会といった国民生活の隅々まで配布されました。印刷物を読む習慣がまだ十分に広がっていなかった時代、絵と声でまとまった物語を伝えられる紙芝居は、ラジオと並ぶ大衆向けの情報伝達手段として、国も新聞社も効果を高く評価していました。文字を読めない幼い子どもにも、絵と語りで直接訴えられる。紙芝居は、国にとって格好の宣伝媒体でした。終戦後、戦争協力をとがめられることを恐れた紙芝居の編集者や業者の多くが、こうした国策紙芝居を自ら焼却したため、現存する作品はごくわずかしか残っていません。

敗戦後のGHQの戸惑いと童心社の誕生

紙芝居の起源は江戸の幻灯機、水あめと拍子木が育てた昭和の文化

戦争が終わると、紙芝居は一転して厳しい視線を向けられることになります。占領当初のGHQは紙芝居という存在そのものを把握しておらず、メディア検閲の計画にも含めていませんでした。ところが街角に子どもが群がる街頭紙芝居を実際に目にしたことで検閲の必要を認め、1945年12月1日からCCD(民間検閲局)による検閲が始まります。検閲済みの印が押された作品以外は上演が認められませんでした。戦争に協力したとして批判された日本教育紙芝居協会は同年末に解散し、多くの作品が処分され、残った作品はごくわずかです。

この検閲では、共産主義的とみなされた左翼的な紙芝居も狙われました。GHQが左翼的と認定した33作品のうち3分の1はある一人の脚本家の作品で、4作品が発禁、2作品が一部削除の処分を受けています。その脚本家こそ、のちに童心社を設立する稲庭桂子でした。戦時中は国策紙芝居を書く側にいて、戦後は一転して占領軍の検閲を受ける側になったという経験は、紙芝居という表現が持つ影響力の大きさを、誰よりも身にしみて知るきっかけになったはずです。1947年には逓信省が郵便貯金を呼びかける『渡り鳥』のような、戦意高揚とは無縁の新しい教育紙芝居も作られるようになり、1948年には戦時協力への反省をもとに「民主的紙芝居人の会」が発足、1950年には「教育紙芝居研究会」へと発展しました。

こうした流れの中で1957年、稲庭桂子たちが東京の新宿に紙芝居専門の出版社、童心社を設立します。一冊の絵本や一枚の紙芝居が子どもの心をどちらの方向にも動かしてしまう恐ろしさを知っていたからこそ、紙芝居を再び子どもの文化として取り戻すという理念から出発した会社でした。童心社は後に絵本の分野でも日本を代表する出版社へと成長し、街頭で生まれた紙芝居を出版文化として定着させる役割を担っていきます。

テレビの普及で街角から消え、劇画・貸本漫画に姿を変えた紙芝居

紙芝居の起源は江戸の幻灯機、水あめと拍子木が育てた昭和の文化

1953年にテレビ放送が始まり、家庭にテレビが普及していくのと反比例するように、街頭紙芝居は衰退の道をたどりました。1960年ごろには、かつて5万人ともいわれた街頭紙芝居屋はごく少数になっています。娯楽の主役はあっという間に交代しました。拍子木の音を聞いて路地に飛び出していた子どもたちは、わずか数年のうちにブラウン管の前に座るようになったのです。

仕事を失った紙芝居画家たちが流れ着いた先が、貸本漫画の世界でした。『黄金バット』を引き継いだ加太こうじのもとで紙芝居の仕事をしていた白土三平は、戦後の生活を支えるために紙芝居を描き、1957年に単行本『こがらし剣士』でデビューして貸本漫画家に転じています。同じ時期、紙芝居的な劇的構図や大ゴマの使い方を漫画に持ち込んだ作家たちが「劇画」と呼ばれる新しいジャンルを作り上げました。受け皿となった貸本屋は、文具店や駄菓子店との兼業も含めて1950年代末から1960年ごろの最盛期には全国でおよそ3万軒にのぼり、東京オリンピックの前後に貸し本という業態自体が下火になるまで、子どもたちの新しい図書館のような役割を果たしました。街角の紙芝居屋が去った後、その語りと絵の力は、貸本屋の棚に並ぶ漫画の中に形を変えて生き続けたことになります。

保育園の教材として、そして世界に広がるKAMISHIBAIとして

紙芝居の起源は江戸の幻灯機、水あめと拍子木が育てた昭和の文化

街角からはほぼ姿を消した一方で、紙芝居は保育の教材という別の道で命をつなぎました。絵本と違い、演じ手と聞き手が向き合って初めて成立する参加型の表現であることや、ゆっくりとしたテンポで場面が切り替わることが子どもの理解力や想像力を育てやすいという点が評価され、全国の保育園・幼稚園・小学校で使われ続けています。環境問題や食育、交通安全といったテーマも紙芝居の形で教材化され、今も新作が作られています。街頭紙芝居の時代は子どもを立ち止まらせるための客引きだった「拍子木」や「間」の取り方が、今は保育の現場で子どもの注意を引き、理解を深めるための技術として読み替えられているとも言えます。童心社をはじめとする出版社は、現役の保育士向けに紙芝居の演じ方を学ぶ講座も開いており、水あめ売りの街頭芸として生まれた表現が、専門職の技術として受け継がれている様子がうかがえます。

さらに紙芝居は、国境を越えて広がっています。紙芝居文化の会によると、紙芝居という文化は海外59の国と地域に広がっており、同会はフランス、ドイツ、スイス、ベトナム、スペイン、オランダ、インド、シンガポール、中国、マレーシア、イタリア、インドネシア、韓国、タイ、スロベニア、メキシコ、ペルーなど18以上の国と地域に講師を派遣し、講演や実演を重ねてきました。中でもフランスでは紙芝居作家のつのゆいこが普及に力を入れ、2018年にはフランスのラルース辞典に「kamishibai」という単語が載るまでになっています。2019年にはリヨン市立図書館が紙芝居専門の施設「カミシテック」を開設し、図書館や学校、保育の場だけでなく病院や高齢者施設、障害者施設、博物館でも活用が進んでいます。国境なき医師団は2011年、エイズ予防の啓発活動の一環として紙芝居を導入しました。2018年には紙芝居文化の会の呼びかけで12月7日が「世界KAMISHIBAIの日」に制定され、2020年には22の国と地域から実演の報告が寄せられています。欧米の図書館員や保育者がこの表現を取り入れる理由としてよく挙げるのは、絵本のように一人で読んで終わるのではなく、演じ手が声の調子や間の取り方で物語の空気を作り、聞き手と場を共有できる点です。これは、路地に自転車を止めて拍子木を打ち、子どもたちの顔を見ながら物語を演じていた街頭紙芝居屋の芸と、驚くほど地続きの発想です。水あめを売るための商売として始まった表現が、百年近い時間をかけて、今では国境を越えた教育とコミュニケーションの手法として使われているのです。

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参考

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-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
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なんだかわからず面白い。「そういうことか」とピンとくる。

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