卒業式で第二ボタンを渡すのはなぜ? 心臓に一番近いボタンが青春のシンボルになった理由

体育館に響く卒業の歌、桜の花びらが舞う校庭、そして「あの、第二ボタン、ください…」という震え声。

もしかしたらあなたも経験したことがあるかもしれませんね。憧れの先輩や気になるあの人に、勇気を振り絞って声をかけた、あの特別な瞬間。

でも、ちょっと待ってください。なんで「第二」ボタンなんでしょう?第一でも第三でもなく、なぜよりによって第二なのか。実はこの習慣、思っている以上に深い歴史があるんです。

今回は、この小さな金色のボタンに隠された驚きの物語を探っていきましょう。

第二ボタンの起源〜戦場から学び舎へ辿った時間旅行〜

学ランに宿る、軍服のDNA

まず知っておきたいのが、男子学生の象徴「学ラン(詰襟学生服)」の正体です。

学ランの起源は明治12年(1879年)に遡り、そのデザインは当時の大日本帝国陸軍の軍服をモデルにしています。学習院が制服として採用したのが始まりとされ、近代化を急ぐ日本において、規律とエリート意識の象徴として全国の学校に広まっていきました。

「学ラン」という言葉の語源も興味深くて、「学」は学生を、「ラン」は江戸時代に西洋を意味した「オランダ」を指し、「学生が着る西洋風の服」という意味なんです。

つまり学ランは当初から、規律、近代化、そして国家という大きな枠組みを背負った衣服だったわけです。

この軍服由来の背景が、後に第二ボタンの物語に重厚な意味を与えることになります。

戦時下のオリジンストーリー。若者が託した形見

第二ボタンの習慣で最も有力とされるのが、第二次世界大戦中のエピソードです。

戦争が激化し、物資が極度に不足した時代、多くの若者たちは正規の軍服ではなく、着慣れた学ラン姿のまま戦地へと送られました。生きては帰れないかもしれないという死の予感を胸に、彼らは出征の直前、愛する人へ何かを残したいと考えました。高価な贈り物ができない状況で、彼らが自らの「分身」として、そして「形見」として手渡したのが、常に身につけていた学ランのボタンだったのです。

中でも、制服メーカーのトンボが伝えるエピソードは、この習慣の背景にある悲恋を鮮やかに描き出しています。

出征する兄の妻(義姉)に密かな恋心を抱いていた学生の弟の物語。やがて弟にも召集令状が届き、学ラン姿で戦地へ赴く日、彼は決して言葉にできなかった兄嫁への想いを、胸の第二ボタンに託して渡したとされています。

この物語は、戦争という極限状況が生んだ、切なくも純粋な愛情の証として語り継がれています。

このようなエピソードは、戦時中は公に語られることはありませんでしたが、戦後、この兄弟を知る恩師から校長へと伝わり、全国の校長が集まる会議で紹介されたことで、感動的な話として生徒たちの間に広まっていったと言われています。

「映画」という触媒。逸話から国民的現象へ

戦時中の悲話が情緒的な土台を築いた一方で、この習慣を全国的な文化現象へと昇華させたのは、大衆文化の力でした。決定的な役割を果たしたのが、1960年(昭和35年)に公開された映画『予科練物語 紺碧の空遠く』です。

この映画には、特攻隊員として最後の出撃を前にした主人公が、想いを寄せる女性に自らの制服の第二ボタンをちぎって渡すという象徴的なシーンが登場します。後に監督自身が自伝で、第二ボタンを選んだ理由を「心臓に一番近いボタンだから」と語っているように、この演出は極めて情緒的で、観客の心に強く訴えかけました。

この映画の大ヒットにより、戦地への「出征」という悲劇的な別れと、学び舎からの「卒業」という希望に満ちた旅立ちが重ね合わされました。映画は若者たちに、想いを伝えるための具体的でロマンチックな「脚本」を提供し、「第二ボタンを渡す」という行為を、誰もが共有できる青春の儀式として定着させたのです。

このように見ていくと、第二ボタンの物語は単なる風習の起源譚にとどまりません。それは、軍国主義の象徴であった「軍服由来の制服」が、戦後の平和な時代の中で、個人の愛や絆を尊ぶ「平和的な感情のシンボル」へと文化的に「再利用」されていく過程を映し出しています。国家のための死の覚悟が込められたボタンは、個人のための生の希望を託すボタンへと、その意味を大きく転換させたのです。

「なぜ第二か」を構造分解する〜ボタンに込められた3つの論理〜

第二ボタンの習慣がこれほどまでに広く、そして長く受け入れられてきた背景には、その選択に複数の説得力のある「論理」が重なり合っているという構造的な面白さがあります。なぜ第一でも第三でもなく、「第二」でなければならなかったのか。その理由を解き明かすと、人間の感情や社会システムに根差した、実に巧みな意味の層が見えてきます。

説1:解剖学的論理「心臓に一番近い」という絶対的なロマン

最も直感的かつロマンチックな理由が、第二ボタンの物理的な位置に由来するものです。

詰襟学生服のボタンを縦に並べたとき、第二ボタンはちょうど心臓の真上あたりに位置します。古来より、心臓は「心」や「魂」が宿る場所とされてきました。このため、「心臓に一番近いボタン」を渡すという行為は、「自分のハート(心)そのものを捧げる」という、これ以上ないほど直接的で純粋な愛情表現として解釈されるのです。

好きな人の「ハートをつかむ」という言葉遊びも、この説をより魅力的なものにしています。このシンプルかつ普遍的な身体感覚に根差した論理は、時代や世代を超えて人々の共感を呼ぶ、この習慣の根幹をなすものです。

説2:体系的論理「制服に隠された秘密のコード」

次に、より複雑で、ある種の「伝承」や「都市伝説」のような面白さを持つのが、5つのボタンそれぞれに意味が割り当てられているという説です。

この説によれば、学ランのボタンは上から順に、特定の人間関係を象徴する暗号になっているとされています。

ボタンの位置象徴する意味解釈
第一ボタン自分自身自分のアイデンティティの象徴
第二ボタン一番大切な人恋人や運命の人に捧げるためにある特別なボタン
第三ボタン友人友情の証
第四ボタン家族家族への絆の表現
第五ボタン他人・謎最も遠い関係性、あるいは特に意味がないとされる

この体系が共有されることで、制服は単なる衣服から「読むことができるテキスト」へと変わります。そして、第二ボタンを渡すという行為は、「あなたは私にとって、友人や家族以上に特別な、一番大切な人です」という、極めて具体的で力強いメッセージを伝えるための、洗練されたコミュニケーション手段となるのです。

説3:実用主義的論理「ささやかな反骨精神の美学」

最後に、ロマンチックな物語を現実の学校生活に引き戻す、非常にプラグマティックな理由も存在します。それは、校則や教師の目を意識した、ある種の「処世術」としての論理です。

もし一番上の第一ボタンを外してしまえば、襟元がだらしなく開き、服装の乱れとして先生から厳しく注意されることは必至です。軍服をルーツに持つ詰襟学生服において、第一ボタンは規律の象徴であり、それを外すことは許されざる行為でした。

しかし、第二ボタンであれば、一つくらいなくなっていても、上着をきちんと着ていればそれほど目立ちません。この「見つかりにくい」という実用的な利点が、第二ボタンが選ばれた背景にあるというのです。この説は、ロマンチックな告白の儀式が、実は学校という管理社会の中で生き抜くための、ささやかで賢い反骨精神の産物でもあったことを示唆しており、物語に人間味あふれる深みを加えています。

この習慣が持つ強靭さの秘密は、これら三つの論理――「解剖学的なロマン」「体系的なコード」「実用主義的な知恵」――が、互いに排斥し合うことなく、見事に共存している点にあります。渡す側は「心臓に近いから」という純粋な気持ちで選び、もらう側や周囲は「一番大切な人」というコードでその意味を解釈し、そしてその行為自体が「先生に怒られない」という現実的な配慮に支えられている。この重層的な意味の構造こそが、第二ボタンの習慣を単なる流行で終わらせず、世代を超えて受け継がれる強固な文化へと育て上げた「構造的な面白さ」の正体なのです。

変わりゆく伝統〜ブレザー時代の第二ボタン〜

かつて男子生徒の制服の代名詞であった学ラン。しかし、時代の移り変わりとともに、その風景は大きく変化しました。ブレザースタイルの制服が主流となる現代において、あの甘酸っぱい第二ボタンの儀式は、消えゆく運命にあるのでしょうか。実は、伝統は消滅するのではなく、その形を変え、新たな意味を纏いながら、したたかに生き続けています。

学ランの衰退とブレザーの台頭

近年、中学校や高校の制服として、学ランに代わってブレザーが採用されるケースが著しく増加しています。制服メーカーの菅公学生服によると、この変化にはいくつかの理由が挙げられます。

一つは、学校側の規律維持の観点です。1980年代を中心に、「ツッパリ」文化の流行とともに、丈を極端に短くした「短ラン」や長くした「長ラン」といった「変形学生服」が問題となりました。学ランに比べてデザインの自由度が低いブレザーは、こうした生徒による改造を防ぎやすいという利点があったのです。

もう一つの理由は、学校の「個性化」戦略です。ボタンと襟章くらいしか差別化の要素がない学ランに対し、ブレザーはジャケットの色、ネクタイやリボンの柄、スカートやスラックスの模様など、多彩な組み合わせで学校独自のアイデンティティを表現できます。これが、少子化の中で生徒獲得を目指す学校側のニーズと合致したのです。

「新しい第二ボタン」の登場

でも大丈夫!伝統は形を変えながら生き続けています。

ブレザーの第二ボタンは心臓の近くじゃなくてお腹の辺りにあるので、代わりにこんなアイテムが人気になってます:

  • ネクタイ・リボン:毎日身につける個人の象徴として最適
  • 名札・校章:学校生活を共にした証として価値あり
  • その他のボタン:袖のボタンや第一ボタンなど、柔軟に対応

意味も広がっている!? 恋愛から友情、敬意まで

現代では、この習慣の意味も広がっており、

  • 同性の親友へ深い友情の証として
  • 部活でお世話になった先輩へ感謝と敬意の印として
  • 可愛い後輩へ絆の証として

など、さまざまな想いの表現方法として使われています。人間関係が多様化する現代らしい変化ですよね。

世界から見た、日本独自の通過儀礼

卒業式に第二ボタンを渡すという習慣は、私たち日本人にとっては馴染み深いものですが、一歩引いて世界的な視点で見ると、その特異性が浮かび上がってきます。この習慣を他の文化圏の卒業式の風習と比較することで、日本のコミュニケーション文化や恋愛観に根差した、その本質的な意味が見えてきます。

西洋との対比〜静かなる告白と華やかな祝祭〜

欧米の卒業式を思い浮かべてみてください。映画やドラマでよく目にするのは、式典の最後に学生たちがアカデミックキャップ(角帽)を一斉に空へ投げ上げる、解放感あふれるシーンです。また、卒業は家族や親戚、恋人、友人が一堂に会して祝うビッグイベントであり、盛大なパーティーが開かれるのが一般的です。恋愛のクライマックスとしては、卒業シーズンに開かれるダンスパーティー「プロム」がその役割を担います。

これらの西洋の習慣が、オープンで、集団的で、感情を豊かに表現する「祝祭」としての性格が強いのに対し、日本の第二ボタンの交換は対照的です。それは通常、式典後の喧騒の中で、人目を避けるようにして行われる、一対一の、静かでプライベートな儀式です。言葉少なに、一つの小さなボタンを介して、最も深い感情が交わされる。この様式は、直接的な言葉よりも、場の空気や行間を読むことを重んじる、日本の「本音と建前」の文化や、非言語的コミュニケーションを大切にする国民性を象徴していると言えるでしょう。

卒業式という「告白の最終期限」

この習慣はまた、「卒業」という人生の節目が持つ、特殊な心理的効果と密接に結びついています。多くの学生にとって、卒業式は、これまで毎日顔を合わせていた仲間と離れ離れになる日。それはつまり、秘めた想いを伝えるための「最終期限(デッドライン)」でもあるのです。

「この日を逃したら、もう二度と会えないかもしれない」という切迫感が、普段は臆病な心に勇気を与えます。しかし、直接言葉で「好きです」と伝えるのは、あまりにもリスクが高い。もし断られたら、最後の思い出が気まずいものになってしまうかもしれません。

ここで、第二ボタンは完璧な「文化的な小道具」として機能します。言葉の代わりに物を渡すという行為は、告白の直接性を和らげ、万が一相手にその気がなくても、「記念に」という言い訳を可能にします。それは、曖昧さを残しながらも真意を伝えるという、極めて高度なコミュニケーションを可能にする、文化的に洗練された発明なのです。

興味深いことに、近年の調査では、実際に卒業式をきっかけに告白する高校生は少数派であるというデータもあります。これは、SNSの普及により、卒業後も繋がりを維持しやすくなったことや、恋愛に対する価値観の変化が影響しているのかもしれません。しかし、だからこそ「第二ボタンを渡す」という行為は、現実の告白が減った現代において、より一層、青春時代の甘酸っぱい理想を凝縮した、半ば神話的な憧れの儀式として、物語や歌の中で輝き続けているのです。

結局のところ、第二ボタンの習慣は、通過儀礼という普遍的な人間の営みに対して、日本文化が導き出した、非常にユニークな「解」なのです。それは、含みや余韻を大切にする美意識と、別れという感傷的な瞬間が交差する点に生まれた、世界でも類を見ない、繊細で美しい心の交歓の形と言えるでしょう。

「ボタン」という小さな物質が持つ、永遠の価値

体育館の喧騒から始まり、戦場の硝煙、銀幕のロマンス、そして現代の教室へと至る、第二ボタンをめぐる壮大な旅路を私たちは辿ってきました。この小さな金属片の物語は、単なる一つの風習の由来を解き明かすだけではありませんでした。それは、私たち人間が、いかにしてありふれた「モノ」に、特別な「意味」を吹き込み、それを文化として育て上げていくかという、普遍的な営みを映し出す鏡でもあったのです。

この探求を通じて私たちに提供された「知的なメガネ」は、次のような視点を与えてくれます。第二ボタンの物語とは、究極的には、ますますデジタル化し、非物質的になっていく世界の中で、私たちが今なお求め続ける「触れることのできる繋がり」の価値を教えてくれる物語である、と。

軍服という国家の象徴から生まれ、戦争という悲劇の中で個人の愛の証へと意味を変え、映画によってロマンの脚本を与えられ、学校という社会システムの中で巧みに生き延び、そして現代の環境変化に適応しながらその精神を受け継いでいく。このボタンの変遷は、文化がいかにダイナミックで、創造的であるかを見事に示しています。

あなたが、かつて第二ボタンをもらったり、あげたりした経験を持つ世代であれ、あるいは物語の中でしか知らない新しい世代であれ、この背景にある幾重にも重なった歴史と文化の層を知ることで、卒業式という風景が、昨日までとは少し違って見えるはずです。それは、世界が「少しだけ面白く、そして愛おしく」なる瞬間です。

第二ボタンは、もはや単なるボタンではありません。それは、歴史と文化、そして時代を超えて繰り返される若者たちの切ない想いを内包した、小さなタイムカプセルなのです。その小さな輝きの中に、私たちは、形あるものに心を託すという、人間ならではの愛おしい営みの永遠の価値を見出すことができるのです。

参考

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-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
“偏”に対して真っ直ぐに、“愛”を注ぐからこそ持ち得た独自の眼差し。
そんな偏愛者の主観に満ちたピントから覗かれる世界には、
ウィットに富んだ思いがけない驚きが広がります。
なんだかわからず面白い。「そういうことか」とピンとくる。

偏愛のミカタ PinTo Times