「好きなものなんですか?」と訊かれて、言葉に詰まる話─偏愛者と一般人、その沈黙のちがい

「好きなものは何ですか?」
よくある質問だ。初対面の人と話すとき、なんとなく空気を和らげたいとき、会話の種が尽きたとき。便利な問いとして、いろんな場面で使われている。
でも、実際に聞かれると、少し戸惑う。
「うーん……映画とかかな」
そんなふうに、つい無難な答えを返してしまって、あとから「ほんとはちょっと違うんだけどな」と思うことがある。
この問いはシンプルに見えて、案外むずかしい。
そしてその“むずかしさ”の中身は、人によって違っている。
答えられない理由は、ひとつじゃない
この問いにうまく答えられない人には、大きく分けてふたつのタイプがいると思っている。
ひとつは、自分が何を好きなのか、はっきりとわかっていない人。
もうひとつは、自分の「好き」が深すぎて、すぐには語れない人。
前者は、「これが好き」と思えるものにまだ出会えていなかったり、あってもそれをどう言えばいいのかがわからなかったりする。
人からどう思われるかも、少し気になってしまう。
だから「特にないです」と答えたり、「なんとなく音楽が好きで……」みたいにぼんやりした言い方になってしまう。これはこれで、よくあることで、悪いことじゃない。“好き”って、案外ちゃんと向き合ってみないと気づかないものだし、無趣味の時間だってとても豊かなものだから。
偏愛者の沈黙は、“深さ”と“客観視”の両方ゆえに
もうひとつの沈黙は、ちょっと違う理由で生まれている。
偏愛者は、自分が何をどれだけ好きか、ちゃんとわかっている。
しかもそれが単なる趣味ではなく、日常に溶け込んでいて、あまりにも当たり前になっている。
朝コーヒーを飲むように、その対象に触れている。ある意味で、呼吸みたいな存在になっている。
でも、その深さがあるからこそ、語ることに慎重になる。
なにより、言葉にした瞬間に、その“当たり前”が“特別なこと”として切り取られてしまうのが、少し怖い。
そしてもうひとつ。
偏愛者たちは、自分の熱量がときに人から“ちょっと変わってるね”と見られることも、よくわかっている。
だからこそ、信頼できる相手でもなければ、その全部をさらけ出そうとはしない。
無難な答えにとどめるのは、気を遣っていないからじゃない。
むしろ、とても気を遣っているからこそなのだ。
偏愛者は、自分の「好きなもの」を語ることで、その深さや背景が正しく伝わらず、浅く受け取られたり、ズレた形で理解されてしまうことを知っている。
自分にとっては日常の一部でも、相手にとっては“珍しい趣味”として消費されてしまうことがある。
そうした距離感への慎重さが、語りを止める。
沈黙には理由がある。それは、不誠実さではなく、むしろ誠実さの裏返しだ。
「語ること」は、翻訳であり、信頼である
だからといって、「語らないまま」でいいのかといえば、それも違う気がしている。
偏愛は、そのままでは伝わらない。語られて、初めて他者と接点を持てる。
語られなければ、ちょっと変わった行動や趣味として、誤解されたまま終わってしまうこともある。
語るというのは、自分の偏愛を“翻訳する”ことでもある。
自分の目線で見えている世界を、他の人にも見えるようにするための工夫。
そこには、言葉だけでなく、相手への信頼が必要になる。
この人なら、きっとちゃんと受け止めてくれる、という期待がないと、偏愛は開かれない。
PinTo Timesは、そういう“語ってもいい”と思える場所でありたい。
無理に引き出すのではなく、語りたいと思ったときに、そっと差し出せるような場として。
「好き」は、けっこう繊細な感情だ
「好きなものは何ですか?」という問いは、一見シンプルだけど、けっこういろんな要素を含んでいる。
“好き”という感情は、自分だけのもののようでいて、語るときにはいつも誰かとの関係がついてくる。
「どう好きか」「誰に向けて語るか」「どこまで開示するか」
そんなことを、無意識のうちに考えてしまうから、言葉に詰まってしまうのだと思う。だから、すぐに答えられなくても構わない。
沈黙の中には、語る準備がゆっくりと進んでいるだけかもしれない。
そして、問いを返す。
あらためて、あなたにとって「好きなものは何ですか?」
ちょっと言いづらいなと思っても、それでいい。
言葉にしようとした、その手前にある気配こそが、偏愛の入り口かもしれないから。