毎日サウナと毎日パンダ。「だらーん」と「本気」を両立するしなやかな生き方

偏愛者たちが教えてくれる、しなやかな生き方の秘密
毎日サウナに通うマンガ家と、毎日パンダを撮り続ける写真家。一見何の共通点もなさそうな二人の物語を読んでいて、私はふと立ち止まった。この二人、なんだかとても似ている気がするのだ。
タナカカツキさんは十数年にわたってサウナの道を極め続け、高氏貴博さんは13年間毎日上野動物園に通ってパンダを撮影している。どちらも「毎日」という言葉が付くほどの継続性を持ち、そしてどちらもその道を歩み始めたきっかけは、決して壮大な計画ではなかった。
サウナに出会う前のタナカさんは、四六時中デスクの前にいて、血行不良による皮膚疾患に悩み、慢性的な鼻炎を患っていた。一方の高氏さんは、たまたま立ち寄った上野動物園で「だらーんと寝ていたパンダ」に出会った。現実逃避としての気晴らしと、偶然の散歩での出会い。どちらも人生を劇的に変えようという意図はなかったはずだ。
それなのに、なぜ二人はこれほどまでに深くそれぞれの道にのめり込んでいったのだろう。二人の体験を重ね合わせながら、偏愛者たちが共有する感情の軌跡を、一緒に辿ってみたい。
パンダに顔を覚えられた写真家
パンダを観察し、撮影するために10年以上、上野動物園に通い続ける高氏貴博。ブログ『毎日パンダ』は書籍化され、その他にもパンダの写真集なども手掛けている。パンダにハマったきっかけから、10年以上撮影を続けてきた現在まで。魅了されたきっかけと、昨今のパンダ界の動向までお聞きした。
安らぎという名の帰還
二人に共通する最初の感情は、深い安らぎを見つけたということだと思う。タナカさんにとってのサウナ施設は「あられもない無防備な姿で熟睡するおっさんたち」がいて、「何の緊張感もなく、背徳的で非生産的なダメ〜な時空間」だった。そこには日常の重圧から解放された、原始的な安心感があった。
高氏さんがパンダに魅了されたのも、そのゆるさだった。「だらーんとゆるい感じで寝ているパンダ」を見た時、きっと高氏さんの心にも同じような安らぎが訪れたのではないだろうか。パンダのオン・オフがはっきりした姿は、現代社会で絶えず緊張を強いられる私たちにとって、理想的なリラックスの象徴だったのかもしれない。
この安らぎは、単なる怠惰とは違う。創造性研究の分野では、リラックスした状態が新しいアイデアの生成に重要な役割を果たすことが指摘されている。二人が見つけた安らぎの場所は、やがて創造性を育む土壌となっていく。
タナカさんは「蒸気の向こうに広がる世界は、きっと昨日よりも輝いているはずだ!」と語り、高氏さんは「パンダを通じて世界がどんどん広がります」と述べている。安らぎを見つけた場所が、いつしか新しい可能性を生み出す場所に変わっていく。そんな変化を、二人は自然に体験しているのだ。
継続がもたらす深い充実感
二人に共通するもう一つの感情は、継続することで得られる深い充実感だろう。「毎日」という言葉が示すように、二人の偏愛は日常に深く根ざしている。
タナカさんにとってサウナは「現実からの逃避行のような究極の気晴らし」から始まったが、やがて「新たな創造への力を得る」場所に変わった。高氏さんも最初は可愛さに惹かれただけだったが、パンダの成長を見守り、「リーリーとシンシンは5歳でしたがいまや18歳になりました」と語るように、長期的な関係性を築いている。
心理学的な観点から見ると、継続的な関与は対象への愛着を深める効果がある。高氏さんが「お財布は忘れても年パスだけは忘れたことはありません」と語る時、そこには物理的なパスポート以上の、精神的なつながりが感じられる。
継続の中で生まれる充実感は、成果や効率とは異なる種類の満足感をもたらす。タナカさんが世界各国のサウナ文化に触れ、高氏さんがパンダを通じて国際交流にまで発展させていったように、継続は予想もしなかった豊かさを運んでくる。
私も何かを長く続けた経験があるが、その過程で感じるのは、目標達成の喜びとは別の、もっと根深い満足感だった。それは多分、自分の一部になっていくという感覚なのかもしれない。
孤独を抱えながらも共有したい気持ち
二人の物語を読んでいて特に心を打たれるのは、孤独感と共有欲求が微妙に入り混じった感情だ。
タナカさんのサウナ通いは基本的に一人の時間だし、高氏さんのパンダ撮影も同様だ。でも二人とも、その体験を他の人と分かち合いたいという強い願いを持っている。タナカさんは『サ道』という作品を通じてサウナの魅力を伝え、高氏さんは「毎日パンダ」のブログで写真を共有している。
「上野にはこんなに可愛いパンダが暮らしている、みんな見てみて!」という高氏さんの言葉からは、自分だけが知っている素晴らしさを、どうしても誰かに伝えたいという切ない気持ちが伝わってくる。
偏愛者が抱える孤独感について、文化人類学の研究では、現代社会における個人の趣味活動が持つ社会的意味が論じられている。一見孤独に見える活動も、実は他者とのつながりを求める行為として機能している場合が多いのだという。
きっと多くの偏愛者が、この二人と同じような気持ちを抱いているのではないだろうか。自分の愛するものを理解してもらえない寂しさと、それでも誰かに伝えたいという熱い思い。その両方を胸に抱えながら、今日もまた愛する対象に向き合っている。
時間とお金への独特な価値観
二人の話を聞いていて興味深いのは、時間とお金に対する独特な価値観だ。
高氏さんは「時間とお金の使い方が上手な印象」と、同じような偏愛者たちについて語っている。また「お金がかからない趣味もたくさんあります。パンダ通いもかかるのは年パス代と交通費くらいです」とも述べている。
タナカさんも、初期のサウナ体験では「手頃な料金で宿泊することもできた」と経済的な合理性に言及している。でも同時に、良いサウナ施設の条件について語る時は、お金よりも質を重視する姿勢を見せている。
この時間とお金への感覚は、一般的な効率性の概念とは少し違う。社会学者の研究によると、趣味活動における時間意識は、労働時間とは異なる「質的時間」の概念で理解される必要がある。偏愛者たちは、量的な効率よりも、質的な満足を重視する時間感覚を持っているのかもしれない。
高氏さんが「突き詰めると言ってきましたが、時間とお金を全力投入する必要はありません」と語るのは、偏愛の本質が全力疾走ではなく、持続可能なペースにあることを示している。
「だらーん」と「やるときはやる」のバランス
最後に触れたいのは、二人が共有するユニークなバランス感覚だ。
高氏さんはパンダの魅力を「だらーんとゆるい感じで寝ているパンダ」から始まり、最後に「パンダのようにだらーんと力を抜いて、でもやるときにはやる、そんなオン・オフがある程度できれば十分だと思います」と結んでいる。
タナカさんも、初期は「背徳的で非生産的なダメ〜な時空間」に安らぎを見つけながら、最終的には創造性を育む場所としてサウナを活用するようになった。
この「だらーん」と「やるときはやる」のバランスは、現代社会では軽視されがちかもしれない。常に前向きで、効率的で、目標志向であることが求められる中で、二人が見つけたのは、もっと自然で持続可能な生き方のリズムだった。
心理学の研究では、適度な弛緩と集中の切り替えが、長期的なパフォーマンスと幸福感の向上に寄与することが示されている。二人の偏愛は、この理想的なバランスを実践している例なのかもしれない。
それぞれの生き方を想う
この二人の物語を読んでいて、私は深く感動した。それは彼らの偏愛そのものの素晴らしさもあるが、何より彼らが持つ誠実さに心を打たれるからだ。
タナカさんが血行不良や慢性的な鼻炎に悩んでいた頃、きっと周囲の人には理解されない辛さがあったと思う。毎日デスクの前にいる生活を続けながら、体調不良を抱えている状況は、決して楽なものではなかったはず。そんな時にサウナという救いを見つけた時の安堵感は、どれほど大きかったことだろう。
高氏さんも、30歳を過ぎてから突然パンダに魅了され、毎日動物園に通うようになった時、周りの人からは奇異に映ったかもしれない。「また今日もパンダを見に行くの?」と言われることもあったのではないだろうか。それでも続けてきたからこそ、今の豊かな世界がある。
偏愛者が抱える孤独感は、多くの場合、理解されないことから生まれる。自分が大切にしているものを、他の人にとってはどうでもいいことかもしれない。そんな不安を抱えながらも、自分の感じる価値を信じ続けることは、実はとても勇気のいることだと思う。
でも同時に、この二人の姿から学ぶことも多い。偏愛は決して閉じた世界に留まるものではなく、最終的には他の人とのつながりを生み出し、新しい可能性を開いていく。それは偏愛者だけでなく、その周りにいる人々にとっても、思いがけない豊かさをもたらしてくれる。
それぞれの人生に宿る価値
もちろん、すべての人が偏愛を持つ必要はないし、持たない生き方にも十分な価値がある。
偏愛を持たない人たちは、しばしばより広い視野を持ち、バランスの取れた判断ができる。一つのことに深く入り込みすぎず、冷静に状況を見極める力は、社会にとって欠かせない要素だ。また、様々なことに興味を持ちながらも、特定の分野に執着しすぎない柔軟性は、変化の激しい現代社会において重要な資質でもある。
実際、偏愛者と非偏愛者の間には、お互いを補完し合う関係が生まれることが多い。偏愛者の深い知識や情熱と、非偏愛者の客観的な視点や幅広い知見が組み合わさることで、新しい価値が創出される。
高氏さんが「遠方に住んでいる方にも届けることができるというのはネットならではの利点です」と語るように、偏愛者の情熱は、それを受け取る人がいてこそ意味を持つ。受け取る側の人々も、偏愛者が生み出すコンテンツや体験を通じて、新しい世界に触れることができる。
タナカさんのサウナ文化への貢献も、サウナに興味のなかった人たちが新しい体験に出会うきっかけとなっている。そこには偏愛者の発信と、それを受け取る人々の関心が出会う、豊かな相互作用がある。
様々な生き方が共にある社会
現代社会は、効率性や生産性を重視する傾向が強いが、偏愛者たちの存在は、それとは異なる価値観の重要性を教えてくれる。
都市社会学の研究では、多様な生き方や価値観が共存することが、都市コミュニティの創造性と持続可能性に寄与することが指摘されている。偏愛者たちの一見非効率に見える活動も、社会全体の豊かさに貢献している重要な要素なのだ。
タナカさんが世界各国のサウナ文化を紹介し、高氏さんが国際交流に発展させていったように、偏愛は時として文化の架け橋にもなる。一人の人間の深い関心が、やがて多くの人々の理解や関心を呼び起こし、文化的な交流を促進していく。
また、偏愛者たちが持つ長期的な視点も、現代社会にとって貴重な資産だと思う。短期的な成果を求められることの多い現代において、13年間パンダを撮り続ける高氏さんや、十数年サウナに通い続けるタナカさんの姿勢は、時間をかけて物事を育てていく大切さを思い出させてくれる。
あなたらしい生き方を大切に
この記事を読んでくださっている偏愛者の方々に、まずお伝えしたいのは、あなたの感じている価値は本物だということだ。
周りの人に理解されないことがあっても、時にはお金や時間の使い方を疑問視されることがあっても、あなたが大切だと感じているものには、きっと他の人にも伝わる何かがある。タナカさんや高氏さんがそうであったように、今は一人で向き合っている情熱も、いつかは誰かとの素晴らしい出会いや交流を生み出すかもしれない。
同時に、まだ自分の偏愛に出会っていないと感じている方にも、高氏さんの言葉を贈りたい。「散歩がてらキョロキョロしてみてほしいです。実際私も30を超えてから、散歩をしていたら突然パンダに出会いました。一生物の趣味との出会いとはそんなものです」
偏愛との出会いは、必ずしも若い頃に訪れるものではない。人生のどの段階でも、突然現れる可能性がある。そして、たとえ偏愛に出会わなくても、それはそれで一つの生き方として尊重されるべきものだ。
重要なのは、自分らしい生き方を見つけ、それを大切にすることだと思う。それが深い偏愛の形をとるのか、幅広い関心の形をとるのか、あるいは別の形をとるのかは、人それぞれでいい。
最後に
タナカさんと高氏さんの物語を通じて、私は偏愛の持つ豊かな可能性について改めて考えさせられた。
一見些細に見える個人的な関心も、長い時間をかけて育てていけば、自分自身だけでなく、周りの人々にとっても価値のあるものに成長していく。そして何より、偏愛者たちが教えてくれるのは、「だらーん」と力を抜きながらも、大切な時には集中するという、現代社会で忘れがちなバランス感覚の大切さだった。
もしかしたら、偏愛者と非偏愛者の区別も、それほど明確なものではないのかもしれない。誰もが何かしらの関心や愛着を持っているし、その深さや表現の仕方が違うだけなのかもしれない。
大切なのは、お互いの生き方を理解し、認め合うことだと思う。偏愛者の情熱と、非偏愛者の客観性。どちらも社会にとって必要な要素であり、その相互作用の中から新しい価値が生まれてくる。
今日もきっと、どこかでサウナに向かう人がいて、パンダを見つめている人がいる。そして、まだ自分の大切なものに出会っていない人も、何かを探しながら歩いている。そんな様々な人々が共に生きる社会の豊かさを、改めて感じている。
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