応援ではなく、凝視である。―偏愛という静かな熱について

違和感の正体を、やっと言語化できたかもしれない
「あ、それ、推し活だね」。
取材や日常の会話のなかで、何度も耳にしてきた言葉だ。
何かに夢中になっている人を見ると、ついそう言いたくなる。
そして、そう言われた側も、たいていは笑って「そうかも」と返す。
でも、そのあと小さく付け加える人がいる。
「でもなんか……ちょっと違うんですよね」。
その“ちょっと”の正体を、ずっと探していた。
明るく、健やかに、胸を張って「これが好きです」と言える「推し活」という文化。
その語彙にすくい取られなかった、もうひとつの“好き”が、たしかにある。
このメディアで出会ってきた、いわゆる“偏愛者”たち。
誰にも頼まれず、求められもせず、それでも「好き」でい続ける人たち。
彼らの語り口は、熱があるのに静かで、他人に理解されることを前提としていない。
発信するというより、ただ——見つめているようだった。
一方で、SNSやカルチャーの文脈でよく見る「推し活」には、もっと明るい熱がある。
それは「共有されること」を前提としたムーブメントだ。
「私はこれが好きです!」という旗を掲げ、仲間を求め、声を届けていく営み。
どちらも「好き」から始まっている。
けれど、その“好き”の在り方が、決定的に違う。
その違いを、今日は言語化してみたいと思う。
推し活とは、“応援すること”である
推し活とは何か。端的に言えば、「誰か、もしくは何かを応援すること」だ。
K-POPのカムバに合わせてYouTubeの再生回数を稼ぎ、声優の誕生日にはSNSで祝福を投稿し、VTuberの配信ではコメント欄を埋め、スパチャで応援する。
アニメの新キャラが登場すれば、「#〇〇ちゃん尊い」「#〇〇しか勝たん」といったハッシュタグが生まれ、キャラ専用のアカウントが立ち上がる。
“推し”の名前が刻まれたアクスタを痛バに詰め、ライブに遠征する。
CDの売上に貢献し、雑誌のアンケートに投票し、グッズをコンプリートする。
そこには、「推しを勝たせたい」という意志がある。
つまり、推し活は「応援する/される」という構造を持っている。
“推し”とは、応援に値する存在として選ばれた対象だ。
「あなたを推すから、あなたは光ってほしい」。
そんな願いが、暗黙のうちに交わされている。
さらに、推し活の本質には「共有」がある。
同じ推しを愛する仲間と共鳴し、布教し、SNSで可視化する。
感情を言語化し、共感の輪を広げていく文化だ。
それは“共に熱狂するための文化”であり、他者の存在を前提とした愛の形でもある。
もちろん、その在り方に貴賎はない。
むしろ、推し活は現代の“健やかな愛し方”のひとつの理想形かもしれない。
好きなものを堂々と好きだと言える空気は、10年前にはなかったのだから。
けれど、応援や共有を前提としない、“まったく別種の好き”がある。
それが、「偏愛」だ。
偏愛とは、“見つめつづけること”である
偏愛には、「推す」でも「応援する」でもない、まったく異なるまなざしがある。
ひとことで言えば、それは“見つめつづけること”だ。偏愛者は、とても静かだ。
誰に頼まれたわけでもなく、報われる保証もなく、ただ、何年も、あるいは何十年も、ある対象を見つめつづけている。
ある偏愛者は、全国のトタン屋根を撮り歩く。
またある人は、線路脇の草木の変化だけを記録し続ける。
使い込まれた業務用ボタンの手触りに異常なこだわりを持っている人もいた。
彼らはそれを「推して」いるわけではない。
“自分だけの現象”に魅せられ、その背後にある秩序や時間に、何年も目を凝らしている。
推し活には、「人気がある」「売れている」「かっこいい」など、社会的な評価の物差しが自然と組み込まれている。偏愛には、それがない。
他の誰も注目していなくても構わないし、説明すればするほど伝わらないこともある。
それでも、「なぜか好き」「やめられない」と思いながら、静かに見つめ続けてしまう。
偏愛は、説明や同意を必要としない、“内側にだけ向いた好き”なのだ。
ある偏愛者はこう言った。
「最初は“好き”というより、“なぜ気になるのか自分でもわからない”状態から始まるんです」。
“気になる”という小さな違和感を、丁寧に追いかけていった先に、いつしか愛着が生まれる。
やがてその対象は、自分の目や言葉や人生そのものの一部になっていく。
偏愛は、孤独だ。
けれど、それを苦しいとは感じていない。
むしろその孤独こそが、偏愛を成り立たせているのだ。
偏愛とは、たとえば深海魚の生態系のようなもの。
簡単には共有できない閉じた世界で、それでも確かに存在している——自分と世界との関係性。
“共鳴”と“独語”——視線の方向がまったく違う
推し活と偏愛は、どちらも「好き」という感情から始まっている。
だからこそ、表面だけを見れば似ているように映るし、実際に“混同される瞬間”も多い。
けれど、その熱が向かっていく“方向”が、まるで違う。
推し活は、世界に向けてひらかれた視線を持っている。
自分がどれだけその対象を好きかを、誰かと共有したい。
「私もそれ好き」「わかる!」という共鳴を求めて発信し、“同士”を探し、SNS上にコミュニティを築いていく。
そこには「推しを応援したい」「推しをもっと知られてほしい」という、“対象を外に押し出す”ための愛がある。
偏愛は、まったく逆の方向に視線を向けている。
それは、世界に伝えるための“好き”ではなく、自分ひとりのなかに静かに持ち続ける“好き”だ。
誰かにわかってほしいという気持ちが、最初から欠けているわけではない。
けれど、「これは誰にもわからなくてもいい」と思える感覚のほうが、むしろ偏愛を安定させる。
偏愛者にとって大事なのは、“わかってもらえること”ではなく、“わかりたいと思い続けること”なのだ。
推し活は呼びかけの文化であり、偏愛は独語の文化である。
熱を広げていくことと、熱を深めていくこと。
光に向かう花と、地中に根を張る木。
どちらも生き方として等しく尊い。
ただ、その熱の質がまったく違う。
なぜ偏愛は、“推し活”として消費されやすいのか
偏愛と推し活は違う。
——にもかかわらず、現代においてこの二つは、しばしば同じものとして見なされてしまう。なぜ、そんなすれ違いが起きるのか。
その背景には、「好きは語るべきものだ」という空気の濃さがあるように思う。
いま、私たちが“好き”を表現する場所の多くは、SNSという舞台だ。
そこでは、わかりやすい共感が重視される。
「みんなが知っているもの」に乗っかったほうが、伝わりやすい。
一見ニッチな対象であっても、ハッシュタグや構文(#○○しか勝たん/○○が尊い)といった“共有のフォーマット”に落とし込まれることで、「それって推し活だね」と言いやすくなる。
発信は、可視性を得る手段であると同時に、見られることで“文脈”を背負わされてしまう行為でもある。
偏愛は、本来とても“文脈を持たない”感情だ。
偶然惹かれてしまった、なんでもない場所。
なぜか見逃せない、意味のない反復。
説明も、背景も、ストーリーも持たないまま、ただそこにあるものとの、じっとした時間。
だがSNSの文法は、それを“ネタ”にしてしまう。
好きであることを伝えれば伝えるほど、「どうやって見つけたの?」「おすすめ教えて」と、共有と拡散の回路に巻き取られていく。
その過程で、偏愛は“推し活っぽいもの”として消費されてしまう。
「それ、推し活だね」と言われたときの、あの引っかかり。
あれは、“意味を持たせたくない”ものに、無理やり意味が与えられてしまうときの違和感なのだ。
偏愛は、本来、見えなくてもよいし、伝わらなくてもよい。
それでも、好きでいられる。
だからこそ、そのまなざしは「静かな熱」として存在し続けることができる。
それでも、どちらも“好き”から始まっている
推し活と偏愛は、まったく違う。
推し活は、「届けたい」「広めたい」「支えたい」という、外へ向かう熱。
偏愛は、「見つめたい」「確かめたい」「そばにいたい」という、内へ沈む熱。
光と根。共振と独語。広げることと深めること。
どちらが優れているわけでもない。
ただ、それぞれが違うかたちで、世界とつながろうとしている。
私たちがこのメディアで偏愛に光をあてるのは、「誰かにわかってもらえることが前提じゃない熱」にこそ、いま必要な強さがあると信じているからだ。
もちろん、こうも言われるかもしれない。
「偏愛は他者に伝える必要がないと言いながら、あなたたちは記事として発信しているじゃないか」と。
たしかに、偏愛者たちもときに語る。
文章にし、写真を撮り、編集者と共に誰かに届けようとする。
それは共有ではないのか?推し活と、どこが違うのか?
私たちは、そこに決定的な“語り方の違い”があると考えている。
推し活は「わかってほしい」から始まるが、偏愛の語りは「自分でもまだ、わかっていないことを、書きながら確かめている」に近い。
伝えるための表現ではなく、見つめるための表現。
誰かに向けられた声ではあるけれど、それは“語ることでさらに深く潜る”行為なのだ。
だから私たちは、偏愛者たちに語ってもらうときも、「共有」ではなく「記録」に近い形で、それを見守るようにしている。
偏愛者の語りは、派手な盛り上がりはないかもしれない。
けれどその語りのなかには、自分だけが見てきた世界の密度がある。
その密度に触れるとき、人は自分の視野が静かに揺さぶられる。
そんな経験を、読者と一緒にしていきたいと私たちは思っている。
だから、最後にこう問いかけたい。
あなたの“好き”は、どこに向かって燃えていますか?
それは誰かに届けたいものですか?
それとも、あなた自身だけが知っていればいいものですか?
そしてもし後者であるなら——それは、もしかすると、偏愛なのかもしれません。