偏愛が世界のピントを変える―PinTo Times編集長より

偏愛者に出会って、世界の見え方が変わった
偏愛者に出会うまでは、「好き」という感情をあまり深く考えたことがなかった。
ただ何となく惹かれるもの、気づけば目に入っているもの。
そのくらいの曖昧な感覚で、特別意味づけをする対象ではなかったと思う。
けれど偏愛者と出会い、その印象は大きく変わった。
彼らは、対象を前にして考え、言語化し、整理していた。
ただの趣味や関心のレベルではなく、問いを立て、構造を読み取ろうとする姿勢があった。
話を聞いているうちに、「なぜ自分はこれに惹かれるのか」と考える行為が、偏愛の本質なのだと気づいた。
それは、感情の発露ではなく、思考の習慣に近いものだった。
偏愛とは、単なる熱中ではない。
「自分がなぜ惹かれているのか」を問い、理解を深めていく営みである。
言い換えれば、偏愛とは好きの奥にある「なぜ?」を掘り下げ、自分の解像度を上げていく行為だ。
偏愛者の語りを聞くなかで、私も自身の思考のあり方に意識が向くようになった。
関心の向け方、理解の深め方において、別のアプローチがあることを実感した。
結果として、自分の見ていた世界が少しずつ変わり始めた。
“偏愛の偏愛者”という立場
私は、自分自身を偏愛者だとは思っていない。
長く突き詰めた対象があるわけでも、語りたい情熱を持っているわけでもない。
ただ、偏愛者の語りには惹かれてきた。
その語りの中から垣間見える思考の深さや独自の視点が、私に知らない世界を見せたからだ。
自分の立場をあえて言葉にするなら、「偏愛の偏愛者」だと思う。
そして、私も彼らのように理解を深めていく中で、偏愛そのものというよりも、偏愛という行為や、それを支える構造に関心を持つタイプだとわかってきた。
それのせいか、私は偏愛者とそうでない人の間にある“辺縁”に立っているのだと思うようになった。
つまり、どちらの感覚にもある程度の理解があり、両方の視点を行き来できる。
だからこそ、私の役割は、偏愛者の語りが読者にも届くように補助線を引くこと。その逆もまたしかりで、読者の感覚が偏愛者に伝わるよう翻訳すること。
間に立つ者として、そんな接続をつくれたら良いと思っている。
PinToTimesが描く新しいメディアの輪郭
改めてではあるが、偏愛という言葉を聞いてあなたは何を思い浮かべるだろうか?「こだわり」や「熱量」といった印象が強いのではないかと思う。
しかし私たちがこのメディアで取り上げたいのは、そうした側面だけではない。
偏愛とは、ただの情熱ではない。
それは、時間をかけ、問いを投げかけ、何度も試行錯誤しながら育てた、“思考の集積”である。
対象に感情を向けるだけでなく、それを理解しようとする思考を重ねること。そのプロセスにこそ偏愛の価値があると考えている。
PinToTimesでは、偏愛を「なぜそれを好きだと感じているのか」という構造から捉え直す。好きの理由を言語化し、他者に共有できる知見として提示していく。それが、読者の視点に働きかけることにつながる、私たちは信じている。
他人の偏愛を通じて、自分のものの見方が少し変わる。そこにこのメディアの体験価値がある。
なぜ“いま”このメディアが必要なのか
現代社会では、影響力や可視化された数値が評価基準になりやすい。再生回数、フォロワー数、売上といった指標が、コンテンツの価値や人の能力を左右する場面も見られてしまう。
ところが偏愛の世界では、そうした基準とは異なる価値が重視されているように見受けられる。
深く考えること、問いを立て続けること、それらに対して自然と敬意が向けられている。その態度は、消費される情報の速さとは対照的で、丁寧に向き合う営みだと言える。
また興味深いのは、一見、自分の好きなことに没頭するように思える偏愛者も、自分と異なる他者の偏愛に対しても関心を持ち、理解しようとする傾向があることだ。
自身の興味に真っ直ぐな人間が、他人の視点に対して開かれた姿勢を持つ。一見、相反するように見えるこの事実が、偏愛者から垣間見られるのは、非常に示唆深い。
社会をアップデートしようと様々な課題に対して解決方法が語られるなかで、偏愛は、数値やランキング以外の新しい価値の尺度として機能する可能性がある。
PinToTimesは、そうした価値の見方を提示するひとつの場所になりたいと考えている。
読者へ ― 偏愛者へ、そしてまだ偏愛に名前をつけていない人へ
このメディアが伝えようとしている内容は、すべての人にとってわかりやすいものではないかもしれない。偏愛に対する興味の深さや視点の違いによって、受け取り方も変わるだろうが、それでも有意義なものになると信じている。
すでに偏愛を持っている人が読むとどうだろうか。
他人の語りを通じて、自分の偏愛の構造を客観的に捉え直す機会になるはずだ。
では、自分の“好き”をまだ言語化できていない人は?
他者の語りから、自分が関心を持っているものの特徴に気づくことがある。その気づきが、視点の転換につながっていくことも少なくない。
いずれにせよ、何かの気づきが得られると私は信じている。
最後に、ひとつ。
今回偏愛者に触れるあなたは、何を感じるだろう?
その体験を手がかりに、自分の好きについて考えてみるとこれまでと少し違った世界が見えてくるかもしれない。