誰もが知る童話一覧、原作をたどると驚くほど違う顔が見えてくる

白雪姫、シンデレラ、赤ずきん、人魚姫。子どもの頃に絵本やアニメで触れたこれらの物語は、大人になった今でもタイトルを聞くだけで場面がぱっと浮かんでくるのではないでしょうか。ハッピーエンドで終わる優しい話、というイメージを持っている人も多いはずです。

ところが、いま私たちが知っている童話の多くは、長い歴史の中で何度も書き換えられた「最終形」にすぎません。原作にあたる版まで遡ってみると、教訓の重さや結末の意味合いが、今の印象とはかなり違って見えてきます。誰が、いつ、どんな読者を想定してその物語を書き残したのかによって、同じタイトルの物語でも中身がまるで別物になっていることも珍しくありません。世界の童話を代表するいくつかの作品を取り上げながら、原作をたどった先に見えてくる意外な素顔を追ってみます。

グリム兄弟は童話作家ではなく、言語学の研究者だった

グリム兄弟は童話作家ではなく、言語学の研究者だった

「グリム童話」と聞くと、グリム兄弟が物語を創作したイメージを持つ人も多いかもしれません。しかし兄弟の本業は文献学者であり言語学者でした。ヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムがドイツ各地の口承や古い文献をもとに民話を集め、『子どもと家庭のための昔話集』の第一巻を世に出したのは1812年のことです。

当時のドイツ語圏は、ナポレオン支配下で政治的な統一を欠いた小国の集まりでした。フランス文化が優勢だった時代の空気に対し、自分たちの土地に根ざした言葉や物語を掘り起こそうとする機運がドイツ・ロマン主義の中で高まり、グリム兄弟もその流れに合流します。つまりグリム童話集は、もともと子ども向けの読み物としてではなく、民族の言語と文化の記録として編まれた学術的な資料集に近いものでした。各話には学問的な注釈をつけた付録まで用意されていたといいます。

だからこそ初版には、性的な表現や生々しい暴力描写が編集されずに残っていました。読者の反応を受けて版を重ねるごとに、子どもの教育にふさわしい形へと少しずつ手が加えられていったのです。グリム童話集は最終的に第七版まで版を重ね、そのたびに残酷な場面が和らげられたり、宗教的な要素が加えられたりしています。今私たちが読んでいる話は、いわば何十年もかけて磨かれた「最終版」ということになります。

シャルル・ペローが、民話を宮廷サロンの遊びに変えた

シャルル・ペローが、民話を宮廷サロンの遊びに変えた

グリム兄弟より一世紀以上前、フランスではシャルル・ペローという詩人が民話を題材にした物語集を残しています。1697年に刊行された『すぎた昔の物語ならびに小話』は、扉に描かれた「がちょうおばさんの話」という通称でも知られています。表紙には、召使い風の老女が上流階級の子どもたちに物語を語り聞かせる絵が添えられていました。

ペローが題材にしたのも、赤ずきんやサンドリヨン(シンデレラ)、青ひげなど、もともとフランスの民衆に伝わっていた昔話です。ただしペローはこれらを宮廷のサロン文化にふさわしい洗練された文体で書き直し、物語の最後には教訓を短い詩の形で添えました。当時のフランス宮廷では、貴族の女性たちが集うサロンで即興の物語を披露し合う遊びが流行しており、ペローの童話集もそうした社交の場の空気を色濃く受け継いでいます。

同じ題材でもグリム兄弟が学術的な記録として素朴な語り口を残そうとしたのに対し、ペローは貴族の社交の場で楽しむ読み物として磨き上げた、という違いがあります。グリム童話集の刊行より百年以上も前に、すでにフランスでは同じ物語群が洗練された文学として読まれていたことになり、同じ「シンデレラ」でも、この二つの系統を比べると結末の重さがまるで違って見えてきます。

白雪姫の初版は、継母ではなく実の母親が仕掛け人だった

白雪姫の初版は、継母ではなく実の母親が仕掛け人だった

白雪姫の結末で、意地悪な女王が真っ赤に焼けた鉄の靴を履かされ、死ぬまで踊らされるという場面を覚えている人は多いはずです。中世ヨーロッパにおいて、焼けた鉄の靴を履かせる仕置きは魔女に対する拷問の一種とされていたもので、物語の中の女王は毒リンゴで人を殺そうとした「魔女」として裁かれたことになります。

さらに驚くのは、グリム童話の初版ではこの女王が白雪姫の継母ではなく、実の母親として描かれていたという点です。我が子の美しさに嫉妬した実母が、猟師に殺害を命じるという筋書きは、読者や批評家から教育上好ましくないという声を招き、第二版以降で継母に変更されました。継子いじめという構図は世界各地の昔話に共通する型ですが、白雪姫の場合はもともと血のつながった親子の物語として書かれていたわけです。この改変一つを取っても、童話が「子ども向けにふさわしいか」という基準によって形を変え続けてきたことがよく分かります。

白雪姫には、モデルとなった実在の人物がいたという説がある

白雪姫は完全な空想の産物ではなく、実在した人物の生涯が下敷きになっているのではないかという説も研究者の間で唱えられてきました。中でもよく知られているのが、ドイツの郷土史家エックハルト・ザンダーが1994年に提唱した、16世紀ヘッセン地方の貴族マルガレータ・フォン・ヴァルデックをモデルとする説です。

マルガレータは父の再婚相手にあたる継母から激しい嫉妬を向けられ、16歳という若さでブリュッセルの宮廷へ送り出されることになります。異国での暮らしになじめないまま体調を崩し、21歳の若さで亡くなったと伝えられています。継母との確執や若くしての死という経歴が、白雪姫の物語と重なるとして注目されました。ドイツにはこのほかにも、18世紀バイエルン地方の貴族女性を候補とする説など複数の仮説が存在し、どれか一つが確定しているわけではありません。それでも、なぜこの物語がこれほど長く語り継がれてきたのかを考えるとき、遠い時代を生きた誰かの人生が影を落としているかもしれないという視点は、物語の味わい方を少し変えてくれます。

いばら姫の原作には、王子と結ばれた後にもう一つの試練が待っていた

いばら姫の原作には、王子と結ばれた後にもう一つの試練が待っていた

「眠れる森の美女」として知られるこの物語も、王子のキスで姫が目を覚まし、二人が結ばれて幕を閉じるイメージが定着しています。ところがペロー版の原作では、実は結婚した後にこそ物語の本番が待っていました。

ペロー版では、姫は王子のキスではなく、呪いの効果が百年で切れたことによって自然に目を覚まします。二人はその後結婚して子どもをもうけますが、王子の母親は人食い鬼の血を引く人物として描かれ、息子の留守中に嫁と孫を食べようとするのです。悪事が露見した人食いの王妃は、自ら用意した毒虫入りの桶に飛び込んで最期を迎えます。グリム版ではこの人食い鬼のエピソードがまるごと省かれ、王子のキスで目覚めた姫がそのまま幸福な結末を迎えるシンプルな物語に整理されました。同じ「眠り姫」というタイトルでも、フランスとドイツでは物語の後半がまったく別物になっていたわけです。

シンデレラの靴が暴く、姉たちに科された残酷な代償

シンデレラの靴が暴く、姉たちに科された残酷な代償

シンデレラといえば、なくした片方のガラスの靴を頼りに王子が花嫁を探すという展開が広く知られています。ディズニー版では、姉たちが靴に足が入らずあきらめる場面で終わりますが、グリム童話版の「灰かぶり」では話がそこで終わりません。

継母は、靴に足が入らない娘に向かって「かかとを切り落としなさい」と命じます。姉の一人はつま先を、もう一人はかかとを切り落として血まみれの足を靴に押し込み、何とか王子をだまそうとするのです。最終的には靴からあふれる血で嘘が見破られ、さらに結婚式の場面では鳩に目をつつかれて視力を失うという罰まで受けることになります。同じ「シンデレラ」というタイトルでも、フランスのペロー版とドイツのグリム版とでは、罰の描写の生々しさがまったく異なります。グリム童話が当初、子どもよりも民俗学の研究者を意識して編まれていたという事情が、こうした違いに表れていると考えられています。

赤ずきんには、狼との対決がもう一度用意されていた

赤ずきんには、狼との対決がもう一度用意されていた

赤ずきんが狼に化けた「おばあさん」を怪しみながらも近づいてしまう場面は、多くの人の記憶に残っているのではないでしょうか。ペロー版の赤ずきんは、狼にだまされて祖母ともども食べられてしまったところで物語が終わります。助けに来る猟師は登場せず、油断すれば取り返しがつかないという厳しい教訓を残す形です。

一方のグリム版では、赤ずきんと祖母は一度狼に食べられてしまうものの、狼の毛皮を狙っていた猟師がお腹を切り開き、二人とも無事に助け出されます。物語はここで終わらず、別の狼が再び赤ずきんに声をかけてくる「第二ラウンド」が用意されているのが特徴です。前回の失敗から学んだ赤ずきんは、今度こそ寄り道をせず、まっすぐ祖母の家に向かいます。グリム兄弟は、食べられて終わるペロー版の結末に「狼と七匹の子やぎ」の救出劇を組み合わせることで、一度の失敗から学び直す成長物語へと作り替えたことになります。

人魚姫が最後に手にしたのは、泡ではなく風の体だった

人魚姫が最後に手にしたのは、泡ではなく風の体だった

人魚姫の結末というと、恋がかなわず海の泡になって消えてしまう悲しいイメージが定着しています。実際、人魚の王の末娘が人間の王子に恋をし、声と引き換えに人間の姿を手に入れながらも、最後は泡となって消えていく筋書きまでは広く知られている通りです。

ところが原作はここで終わりません。泡となった人魚姫は、そのまま消滅するのではなく、空気の精霊として新たな体を得て生き続けます。王子や自分の境遇を恨むことなく受け入れた人魚姫は、風の精となって天へと昇っていくのです。単なる悲恋の物語として片づけられがちですが、アンデルセンが書いた結末には、犠牲や献身が報われるという救済の要素がきちんと用意されています。この後日談を知っているかどうかで、物語全体の印象はかなり変わってきます。

アンデルセンが童話に込めた、自分自身の貧しかった記憶

グリム兄弟が民話の「採集者」だったのに対し、デンマークのハンス・クリスチャン・アンデルセンは物語のほとんどを自ら創作した「作家」です。貧しい靴職人の家に生まれたアンデルセンは、幼い頃から周囲にからかわれる経験を重ねながら育ちました。

代表作「みにくいアヒルの子」は、アヒルの群れの中で見た目の違いからいじめられ、居場所を求めてさまよう雛の物語です。アンデルセン自身が学校で貧しさを理由にからかわれた経験や、恋に破れて旅をした際に見た白鳥の姿が、この物語の着想につながったと伝えられています。周囲になじめず自分の居場所を探し続けた末に、最後は美しい白鳥だったと気づかされる展開には、なかなか認められなかった作家自身の半生が重ねられているとも読めます。

また「マッチ売りの少女」で描かれる極度の貧困も、アンデルセンの母親が実際に経験した幼少期の困窮が下敷きになっているといわれます。当時のデンマークは貧富の差が大きく、寒空の下で誰にも助けてもらえない少女の姿には、豊かな人々の無関心に対する静かな批判も込められていたとされています。グリム童話が民族の記録であったのに対し、アンデルセン童話は作者自身の人生がにじみ出た創作である、という違いがここに表れています。

ブレーメンの音楽隊は、実はブレーメンに一度も着いていない

ブレーメンの音楽隊は、実はブレーメンに一度も着いていない

ロバ、犬、猫、雄鶏が音楽隊を結成するためにブレーメンを目指す、という筋書きは誰もが覚えているはずです。年老いて役目を失った動物たちが、それぞれの事情を抱えながら旅に出るという導入は印象的ですが、実はこの物語、最後まで読んでもブレーメンには一度もたどり着きません。

道中で泥棒の隠れ家を見つけた動物たちは、力を合わせて泥棒たちを追い出し、そのままその家に住み着いてしまいます。目的地だったはずのブレーメンは、結局物語のどこにも登場しないまま幕を閉じるのです。年老いて主人から見捨てられかけた動物たちが、道中で偶然見つけた場所に安住の地を得るという流れは、当初の計画がうまくいかなくても道は開けるという読み方もできます。当初の目標に固執せず、道中で見つけた居場所に満足するという結末は、目的地よりも過程の中で得たものを大切にする姿勢を示しているとも解釈されています。タイトルに掲げられた地名が実は一度も出てこないという構造そのものが、この話の隠れた面白さといえます。

童話に共通する「三度繰り返す」語りのルールと、書き換えられてきた理由

童話に共通する「三度繰り返す」語りのルールと、書き換えられてきた理由

ここまで挙げてきた話をあらためて見渡すと、いくつかの物語には共通する型があることに気づきます。白雪姫は継母から紐、櫛、毒リンゴと三度にわたって命を狙われ、赤ずきんは二度目の遭遇で狼に打ち勝ち、多くの昔話や童話では大切な出来事が三回繰り返されてから物語が動き出します。赤ずきんの結末に組み合わされたという「狼と七匹の子やぎ」でも、母やぎに化けようとする狼が声や前足の色を見破られては化け直すというやり取りを重ねてから、ようやく事件が起こります。

これは口承の昔話研究で「三の法則」とも呼ばれる語りの技法で、聞き手が既に知っているパターンの中に身を置くことで安心し、次に何が起こるかを予測しながら物語に入り込めるようにする効果があるといわれています。文字ではなく声で語り継がれてきた童話だからこそ、耳で聞いて分かりやすいリズムが自然と埋め込まれていったと考えられます。

そしてもう一つ共通しているのは、童話の多くが一度書かれてそのまま固定された物語ではないという点です。グリム童話は版を重ねるたびに残酷な描写や不都合な設定が削られ、ペロー童話は宮廷社会の教訓に合わせて磨き上げられ、アンデルセン童話は作者自身の人生や社会への視線を映し込みながら書かれました。同じ題材でも、誰が、どんな読者に向けて、どんな目的で書き残したかによって、結末や登場人物の役回りはまったく違う形になり得ます。

童話が長く読み継がれてきた理由の一つは、こうして時代の要請に応じて姿を変えられる柔軟さを持っていたからかもしれません。子どもに聞かせるための温かい結末も、大人が読み返したときに気づく原作の手触りも、どちらも同じ物語から生まれた枝分かれです。次に絵本やアニメで童話に触れる機会があったら、その裏側にどんな版があり、誰がどんな思いで書き換えてきたのかに思いをはせてみると、見慣れたはずの物語が少し違う手触りで感じられるかもしれません。よく知っているはずの童話ほど、原作をたどると新しい発見が待っています。

PinTo Times ニュースレター登録

参考

PinTo Times

  • x

-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
“偏”に対して真っ直ぐに、“愛”を注ぐからこそ持ち得た独自の眼差し。
そんな偏愛者の主観に満ちたピントから覗かれる世界には、
ウィットに富んだ思いがけない驚きが広がります。
なんだかわからず面白い。「そういうことか」とピンとくる。

偏愛のミカタ PinTo Times