なぜ駅の自販機で「だし」が売れるのか?「だし道楽」に学ぶ、本格・手軽を両立する現代の食ニーズとビジネス戦略

この記事でわかること

  • なぜ駅や駐車場に「だし自販機」があるのか:焼き魚が丸ごと入ったペットボトルが売られる理由
  • 日本の自販機文化の進化:飲料からラーメン、ケーキまで、世界一の自販機大国が辿った道
  • だしが日本料理の魂である理由:禅寺の精進料理から生まれた「うま味」の歴史
  • 小さな醤油蔵の逆転ストーリー:広島の家族経営企業が編み出した24時間営業の戦略
  • 現代人が抱える「時短」と「本格」のジレンマ:タイパ重視なのに本物志向という矛盾を解く仕組み

仕事帰りの駅のホーム。いつもの自動販売機の前を通り過ぎようとして、あなたは思わず足を止めます。

ガラスの向こうに並んでいるのは、コーヒーでもジュースでもありません。琥珀色の液体で満たされたペットボトル。そして、よく見るとその中には、焼かれた魚が一匹、まるごと入っているのです。

「だし道楽」…そう名付けられたこの商品は、本格的な「だし」を自販機で売っています。でも、なぜわざわざ駅や駐車場で? スーパーじゃダメなのでしょうか? そもそも誰が買っているのでしょうか?

この不思議な光景、実は日本の食文化と現代のビジネス戦略、そして私たち自身の「おいしい暮らし」への本音が交差する、面白い物語の入り口なんです。

日本の自販機は「進化している」

だし自販機の特別さを理解するには、まず日本の自動販売機がどれだけユニークかを知る必要があります。

100円玉とホット&コールドが変えた風景

日本の自販機の歴史は意外と古く、1904年に切手とハガキを売る機械が登場したのが始まりです。でも爆発的に普及したのは1960年代。コカ・コーラが全国に880台の自販機を設置したことがきっかけでした。

決定打となったのは、1967年の100円硬貨の改鋳。100円玉が大量に流通し始めたことで、みんなが気軽に自販機を使えるようになったんです。

さらに1970年代、日本は画期的な発明をします。それが「ホット&コールド機」—一台で温かい飲み物と冷たい飲み物を同時に売れる自販機です。夏は冷えたコーラ、冬は温かいコーヒー。この「いつでも、好きな温度で」という究極の利便性が、日本を世界一の「自販機大国」へと押し上げました。

ラーメンからケーキまで—自販機のカンブリア爆発

今や自販機で売られるのは飲み物だけじゃありません。熱々のうどん、冷凍ラーメン、餃子、唐揚げ。さらにはショートケーキ、カニ、うなぎ、馬刺しまで。

特にコロナ禍を経て、非接触で24時間買える自販機は急速に進化しました。これは実店舗とネット通販の良いとこ取り—「物理的な存在感」と「24時間営業」を融合させた、新しい小売のスタイルなんです。

だし自販機も、この進化の流れの中で生まれた、理にかなった存在なのです。

「だし」という日本料理の魂

禅寺の台所から生まれた「うま味」

自販機から出てくる琥珀色の液体は、単なる調味料ではありません。それは日本の食文化の根幹をなす、何世紀もの知恵の結晶です。

だしの歴史は、鎌倉時代から室町時代にかけての禅寺の台所に遡ります。肉や魚を使わない精進料理を作る僧侶たちは、昆布や干し椎茸から深い味わい、すなわち「うま味」を引き出す技術を磨き上げました。

この「うま味」は、後に日本の科学者によって甘味、塩味、酸味、苦味に次ぐ第5の味覚として発見され、「UMAMI」として世界共通語になります。特に面白いのが「うま味の相乗効果」—昆布のグルタミン酸と鰹節のイノシン酸のように、異なるうま味成分を組み合わせると、味が飛躍的に強くなるんです。

だし道楽の主役たち

自販機で売られる「だし道楽」の主役は、焼きあご(トビウオ)と宗田節(ソウダガツオの節)です。

焼きあごは、「あごが落ちるほど美味しい」が名前の由来とも言われる高級だし素材。トビウオは海面を滑空するため常に体を動かしており、脂肪分が極めて少ない。だから雑味のない、上品で澄み切ったうま味が生まれます。

宗田節は、一般的な鰹節より濃厚で力強い風味が特徴。高知県土佐清水市が生産量の7割を占め、その深いコクは関東風の蕎麦つゆなど、しっかりした味付けの料理にぴったりです。

ペットボトルの中の一匹の魚は、ただの飾りじゃない。計算し尽くされた味の設計図なんです。

小さな醤油蔵の逆転ストーリー

この伝統的な味を、なぜ自販機で? その背景には、広島県江田島市の小さな醤油蔵「二反田醤油」の物語があります。

お客さんの声から生まれた24時間営業

核家族化で醤油の消費量が減る中、二反田醤油は醤油をベースにした「だし」を開発。2003年に「だし道楽」を商品化しました。しかし、小さな会社が市場で認知されるのは簡単じゃない。

そこで先代社長が考えたのが、うどん店の開業。だしの味を直接知ってもらうためのショールームとして、2006年にお店をオープンしました。

転機は、お客さんからの声でした。「営業時間外でも、あのだしを買いたい」—この要望に応えるため、そして魚が丸ごと入った見た目のインパクトを活かすため、2007年、店の前に最初のだし自販機が設置されたんです。

駐車場との戦略的タッグ

そしてこのビジネスを全国区にしたのが、2012年のコインパーキング大手「三井のリパーク」との提携でした。

この提携、実は両社にとって完璧なwin-winです。駐車場会社は収益を生まなかった「デッドスペース」を活用でき、二反田醤油は少ない投資で一等地に「無人店舗」を構えられる。

さらに巧妙なのは、場所の選び方です。コインパーキングを利用する人は、仕事や買い物を終えて帰宅途中。そんな人の目の前に「だし」が現れるのは、「今夜の夕食、何にしよう?」という問いへの、絶妙なタイミングの答えになるんです。

「時短」と「本格」〜現代人のジレンマ〜

だし自販機が「今」これほど響くのはなぜか。答えは、現代社会を特徴づける二つの欲求の交差点にあります。

タイパ—時間を求める心

現代の消費行動のキーワードが「タイパ(タイムパフォーマンス)」です。費やした時間に対してどれだけの満足が得られるか—これを多くの人が意識しています。

人々が特にタイパを重視するのは「食事・料理」「掃除」「買い物」といった日々のルーティン。義務的なタスクを効率化して、休息や家族との時間を捻出したいんです。

料理で「だしを引く」という工程は、まさに時間のかかる作業の代表格。効率化したい対象ナンバーワンです。

本物を求める心—コロナ禍が変えた内食

もう一つの力は、コロナ禍で起きた変化です。外出自粛や在宅勤務で自宅で食事をする機会が大幅に増えました。

そして単に家で食べる回数が増えただけじゃなく、「どうせ家で食べるなら、少しでも美味しく、質の良いものを」という本格志向が芽生えたんです。

パラドックスを解く一台の機械

ここに矛盾が生まれます。タイパを重視して手間は減らしたい。でも、本格的で質の高い食事も楽しみたい。この二つの欲求は真っ向から対立します。なぜなら、伝統的な「本格的な料理」は本質的に時間がかかるからです。

このジレンマの完璧な解答が、だし自販機なんです。

自販機でだしを買う行為は、時間のかかる「だしの準備」を外部に委託しつつ、「本格的な味」という結果だけを享受できる。購入時間はわずか数十秒。でもその一滴がもたらすのは、職人の技と自然の恵みが凝縮された深い味わいです。

有名店の冷凍ラーメン自販機や、24時間買えるケーキの自販機も、同じパラドックスを解決しています。かつて専門店でしか味わえなかった「美食体験」を民主化しているんです。

おわりに

駅の片隅の不思議な自販機。もうそれは、単なる奇妙な光景じゃありません。

そこには、日本の食文化の深い歴史があります。精進料理に心を込めた禅僧たちの姿があります。力強く海面を滑空するトビウオの姿があります。醤油の未来を憂い、起死回生の一手を打った広島の職人の情熱があります。

そして何より、忙しい毎日の中でも「おいしい生活」を諦めない、私たち自身の姿があるんです。

この小さな自販機は、人間の創意工夫と、より良い暮らしへの探求心の証です。それは、駐車場や駅といった日常の風景の中にさえ、驚くほど豊かな物語が隠されていることを教えてくれます。

参考

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-偏愛が気づかせる、私たちの見えていなかった世界-

なぜだか目が離せない。
偏った愛とその持ち主は、不思議な引力を持つものです。
“偏”に対して真っ直ぐに、“愛”を注ぐからこそ持ち得た独自の眼差し。
そんな偏愛者の主観に満ちたピントから覗かれる世界には、
ウィットに富んだ思いがけない驚きが広がります。
なんだかわからず面白い。「そういうことか」とピンとくる。

偏愛のミカタ PinTo Times